| 一万倍 その日、ウエストエリアの古い扉をゆっくり開き、そっと中を覗くとマスターが背中をこちらに向けてモップで床をこすっていた。 ドアの上に取り付けた金が乾いた音を出すと、マスターはゆっくりと腰を伸ばしてモップの先をバケツに入れてかき回した。入り口に立っているのが僕と分かると、何も言わずにカウンターへと入っていった。 カウンターの上には銀色のビール樽が二つあり、その隣には近くの弁当屋の袋があった。その隣に新しいレコードが2枚、さらに隣に業務用の皮むきピーナッツの袋。マスターはその一つ一つをカウンターの後ろへ運んだ。 「一週間も無断欠勤とはいい度胸だな」 「すみません」 僕は素直に頭を下げた。 「家出してたらしいな。シゲルが聞きに来たよ」 「少し、ここを離れたくて」 「嫌なことでもあったのか」 「色々と」 「昨日から新しい人に来てもらってる。臨時バイトじゃないぞ」 「わかってます。長い間ありがとうございました」 額が膝につくぐらい深く頭を下げた。マスターはピーナッツの袋を空けて中身を缶へ移しているところだった。 店が始まる前なのに、マスターは疲れて切っているように見えた。初めてここに出勤した時のことを思い出した。今ではレコードは壁の一面を埋め尽くしていた。マスターのいかつい顔は急速に風化して頬が重力に負けて垂れ始めていた。 扉を閉めると聞きなれたベルが音を立てた。 走っているのと変わらないぐらいの速度で歩いて、家に戻ってくると郵便受けが投函物で溢れているのに気がついた。 ゴミ袋を持ってきて、郵便受けから溢れた紙束を次から次へと袋に放り込んだ。ほとんどが建売住宅や旅行のチラシの類で、この家を出て行った住人宛てのものもあった。 僕はその中にひとつだけ僕宛ての封筒を見つけた。 それはどこでも買える味気ない白封筒で、表には女性の字で住所と僕の名前が書いてあった。裏返して差し出し人を見ると「洞木ヒカリ」と記されていた。 あて先がしっかりしているものだけ残して、あとは全て袋に移してゴミ置き場に捨ててから部屋に戻った。 立ったまま封筒を指で開いて逆さにすると、手紙と写真が手に落ちた。 写真は2枚あった。校舎を背景にして真ん中に鈴原トウジがいてすまし顔でピースサインをレンズに向けている。その両隣に僕とヒカリが遠慮がちに立っている。撮っているのはケンスケだろうか。ヒカリの一歩後ろで背を向けているアスカの髪に日が当たって美しく輝いていた。 もう一枚はマンションのエントランスで赤ん坊を抱いたヒカリが恥ずかしそうにこちらを見ていた。僕の記憶よりも髪は短くなっていた。 手紙は当たり障りのない挨拶で始まって、今は兵庫の姫路に住んでいると教えてくれた。僕やアスカの行方をずっと気にしていたが、ある日、伊吹マヤという女性が連絡してきて僕の住所を教えてくれた。マヤという名前はヒカリがアスカから何度か聞いたことがあったので、信頼して手紙を出してみた。すぐにでも会いに行こうかと思ったが、子育てが忙しくて行けないので、これを読んだら連絡がほしい。 それにトウジの妹が静岡県で嫁いだこと、墓が実家の大阪の新阪南市あって、毎年墓参りに行っている。写真は14年前に第三新東京市から避難した時に持ってきたものだ。 そんな内容が簡潔な文章で書かれていた。そして最後に付け加えるように、赤ん坊は相田ケンスケとの子供でもう自分たちは離婚した後だ。と結んでいた。 読み終えてから僕は何度も写真を見返した。二人が結婚して子供を生み、そしてもう離婚している。 二人は僕のかなり前まで人生を進んでいた。部屋に戻ってオーディオプレイヤーのスイッチを入れた。 写真を枕元において、サラ・ダイドの曲を聴きながら両腕を枕の上に重ねて頭を乗せる体勢で床に転がったビール缶の底を見ていた。 ビルディング・ア・ミステリーが流れると、そのサビの部分だけを呟くように歌った。僕が生まれる前のとても古い曲で、ウエストエリアで聞いて覚えた曲だった。 部屋が埃っぽく感じられ、僕が留守にしている間に積もったのだろうかと思った。玄関が開く音がして、足音が近づいてきた。 「今日はいるな」 シゲルが部屋を覗きこんだ。旧東京の街角で僕を見つけてからシゲルは家にいることが多かった。 「話してもいいか?」 「はい、どうぞ」 僕は身を起こした。腕が少し痺れていた。シゲルは曲の音ボリュームを少し下げてから椅子に座った。 「ここは引き払うことにした」 「そうですか」 「二人で住むには広すぎるだろ。俺も毎日いるわけじゃないし」 足を組もうとして持ち上げたつま先が缶に当たった。一軒家の賃料で僕たちの財政収支は赤字の連続記録を更新中だ。サラ金に駆け込む前にここを出るというシゲルの決断は間違いではなかった。 「お前もそろそろ一人で暮らせよ」 「そうします」 長いこと僕を見ているような気がしたが、実際には数秒だっただろう。 「一人でやれるよな」 彼が僕に向けてくれた無償に近い愛情は何だったのだろうかと思った。彼はゲイではないし、僕に引け目があるわけでもない。 「マコトには知らせてあるよ」 シゲルはマヤに好意を寄せていたのかも、そしてカレンダーを13回取り替えた今もそう思っているのかもしれない。僕は京都でマヤに会ったことを話していなかった。彼がマヤを好きだったという僕の予想が当たっているなら、重大な背信行為ということになるだろう。 「来月が最後の月になるから荷物をまとめておいてくれ」 「はい」マヤはここの住所もシゲルと同居していることも知っている。引っ越してしまえば僕がシゲルの新居を知らせない限り、きっと二人は永遠に離れたままだろう。シゲルは生死も知らないマヤからの連絡を待ち続けるのだろうか。 シゲルが部屋を出て行ってからボリュームをもどして机に座った。 便箋を机の上に置き、ヒカリカマヤかで悩み、ヒカリの名前とお決まりの挨拶を書いたところで筆は止まった。苦労して連絡と写真に対する礼を述べ、それから親しかった同級生の名前を何名か書いた、最後に綾波レイの名前を加えてから、だれとも連絡を取っていない。と書き、便箋を半分以上余らせたまま便箋を折った。封筒がないことに気がつき、さっき捨てたチラシに返信用封筒が混ざっていたことを思い出したが、すでにゴミ袋の中だった。 夕食を取ってから本を読み、横になった。 シゲルが荒々しく扉を開き、そのあまりの勢いに僕は跳ね起きた。 「火事だ」 全てのものが燃えていた。膨大な数のレコードが油の固まりになって燃え、火はあらゆる隙間から伸びて揺らめき黒煙を巻き上げていた。 刺激臭が目や喉にしみる。黒い煤が雪のように野次馬の頭上に降ってきた。消防車がバームクーヘンのように巻いた消化ホースを消火栓につないでいるところだった。 吹き上がる炎に白糸のような水の柱が飛び込んでいった。「全焼だ」シゲルが首を振った。 現場を取り囲むロープの内側にマスターが立っていた。ベストが黒く汚れていて、特にシャツの腕が真っ黒になっていた。そのすぐ側で若い男が警官から事情聴取をされていた。 僕が声をかけてもマスターはしばらく燃え盛る炎を見つめていた。それからひどく緩慢な動きで僕をみて「君か、無事だったか」と言った。僕はいたたまれなくなってマスターを残してシゲルの所へもどった。 シゲルのところに戻ってきて向かい合っている人間を見て足を止めた。尾藤ユリがシゲルと向かい合っていた。 二人はほぼ同時に僕の存在に気がついてこちらに視線を向けた。気が滅入るような沈黙だった。シゲルの目は「向こうへ行け」と言っており、ユリの目は憎悪と嫉妬に燃えていた。 思いもしていなかった事実が雪崩のように脳の中へ入ってきて、処理不能で気が遠くなった。ウエストエリアの屋根を支えていた梁が焼け落ちて火の粉が夜空に吹き上がった。野次馬から悲鳴があがり消防士が下がるように叫んでいる。 恐怖心の強い野次馬の体が僕の背中に当たった。振り返るとマスターはさっきいた場所から一歩も動いておらず、ヘルメットをかぶった警官に体を押されていた。シゲルはユリに手を伸ばし、派手に払いのけられていた。 どこにも居場所のない気持ちでさっきよりも広がった野次馬の輪を抜けて部屋へと帰った。ベッドに座ると、体中が焦げ臭かった。服を着替えたが匂いは体に染みてしまったように取れなかった。 遠くで燃える火事の音がして収まってきたかと思うとまた強くなった。そのうちに応援の消防車のサイレンがしたので、僕は玄関の前まで出た。焦げ臭い匂いがここまで漂ってきた。巨大な煙が炎の光に下から照らされて上空へ伸びており、その周りを火の粉が舞っていた。ウエストエリアの火が隣の建物に移ったのだろう。 部屋に戻ってから毛布を頭からかぶった。そのうちに玄関が開く音がしてシゲルが帰ってきた。足音は一つだけだった。足音は僕の部屋の前まで来てほんの数秒だけ止まり、それから去っていった。 翌朝、僕は警官の訪問を受けた。警官は二人でやってきて玄関の扉を開いた僕に丁寧に挨拶をした。 「ウエストエリアの火事はご存知ですね?」 「見に行きました」 「最近まで働いていたそうですね」 そこで僕は彼らの考えている事が分かった。 「放火なんですか」 いえ、年上の方の警官が両手をこちらにむけた。二人の背中越しに乗ってきた白い自転車が見えた。 「恐らく火の不始末でしょう」 「どうした?」 シゲルが降りてきて、警官はシゲルに軽く会釈した。後の会話はシゲルが引き取ってくれた。 「こいつはあそこをクビになったけど火なんてつけませんよ」 疑っているわけじゃないんです。と警官は首を振った。 「こいつは寝てました。私が起こして火事を教えたんです」 「マスターが僕を疑っているんですか」 口を挟むと、警官はまいったな。という風に顔を見合わせた。 「火元は店の奥の簡易キッチンからです」 その場所のことはもちろん知っている。湯を沸かしたり簡単な料理をするために置かれたボンベ式のコンロだ。 「問題はなぜマスターが消化活動をしなかったのかということです」 警官は僕たちに理解しやすいようにマスターと呼んだ。 「マスターは消火しなかったんですか?」とシゲル。 「ショックが大きいようでまだ何も聞けていないんですよ」 「外出していて気がつかなかったのかもしれない」 シゲルが上がり框から靴を履いて僕の隣にまでやってきた。 「寝ていたのかもしれない。昨日はすごく疲れているように見えました」 「昨日、ウエストエリアに行ったんですか?」 警官が僕を問いただした。僕はそれが自分とマスターのどちらを不利にするのか考えた。 「行きました」 若い警官がポケットからスパイラル綴じのメモ帳を取り出して、スパイラルに差し込んであったペンを抜き取り、紙の上に当てた。年上の警官は後輩を咎めるように見た。 「何時ごろ?」 「5時ごろです」 それから僕はいつくかの質問に答えた。若い警官は僕が答えるたびにペンを動かした。 「またお話を聞きにきてもいいですか?」 はい。僕は答えた。僕より年下らしい若い警官、箱舟があった頃は小学生ぐらい、は自分達が重要な証人を見つけた喜びを隠そうとはしなかった。 「もしも火事を放っておいたら罪になるんですか?」 「なりますよ。もちろん」 二人は何時ぐらいに家にいるかを僕に聞いた後、自転車にまたがった。去り際に若い警官が僕の顔をちらっと見た。 それから一週間の間に二度ほど警官の訪問を受けた。質問は次第に具体的になっているように感じた。 痛々しい黒い残骸を残していた火事跡が更地になるころ、マスターが火事にいつ気がついたのかが問題になっているという話をシゲルが仕入れてきた。マスターは店の近くの自宅にいるということだったが、お見舞いに行く気持ちにはなれなかった。 火事は新聞に載った。記事は、自分の店の火事を放置した店主の責任は?という見出しで始まり、家事が起きた時点で店主は店内にいたにもかかわらず消火活動をしなかったために隣の住宅を全焼する火事になった。と経緯を述べ、それから自分の出した火事から逃走して二人を死なせ、放火と殺人で有罪になった過去の判例を紹介していた。 弁護側は被告は当時、自失状態で消化できなかった。現場から逃げていないのがその証拠だと主張し、検察側は被告が最後まで消火活動を手伝わなかったことが、初めから消化の意思がなかったのだと主張していた。裁判はこの点が争われることになるだろう。 そして最後に被告は15年前に妻が夜逃げした後も一人で営業を続け、最近では周囲に「待つのに疲れた」と漏らしていた証言を紹介して終わっていた。 マスターが不作為による現住建造物等放火罪という罪を問われる裁判の主役になった頃に僕たちの退出期限がきた。 僕は荷物をまとめたものの次に住む部屋が決まらず、シゲルの新居、埼玉の和光市の部屋に預かってもらうことにした。 新しい部屋は狭くはなかったが二人分の荷物を入れるといっぱいになった。 僕は旅行代理店から戻ってくるとそのままシゲルの部屋へ向かった。部屋にはまだ開いていないダンボールが積み重なっていて、一目でバンドのメンバーとわかる男たちと床に紙を広げて何か話しているところだった。 「荷物はもう少し預かってください」 シゲルが手にしていた書類を床に置いてこちらを見た。僕は胸ポケットのまだ一度も開いていないパスポートと飛行機のチケットを手で押さえた。 「少し旅行に行きます」僕は重大なことを宣言するように言った。 「ドイツに行ってきます」 |