一万倍

霧はとっくに晴れて美しい夕日になっていた。薄闇の空に月が姿を現してきた。
駐車場に突っ立ったまま、僕は長いこと考え続けていた。
バスに乗っている時間と合わせて約4時間。僕は人間の思考はたいてい悪い方向に進みたがる。という何かで読んだ教訓を実感していた。
百台はゆうに入りそうな広い駐車場を取り囲む金網フェンス沿いに歩き、入り口に近づきすぎたと気が付いて引き返す。フェンスの根元はゴミの吹き溜まりになっていて、菓子の包み紙とか煙草の吸殻が土にまみれていた。
昔から移動していないと何も考えることができない性分なのは知っていた。その対象が深刻であればあるほどそうだった。移動を止めると思考も止まってしまい焦りだけが大きくなる。そういうのを逃亡欲求というのだと知っている。
果てしない散歩を続けながら僕はできる限りの想像力を働かせてアスカの顔を思い出そうとした。
 警備員がやってきて、僕に質問をした。僕は中にいる人に会っていいものかどうか悩んでいると言った。
「そういう人はよくいるんだよ。ここでは」
制服に身を固めた男はそう言って、暖房のきいた入り口の詰め所へと戻っていった。
 気がつくとすでに夜だった。時計を見ると7時になろうとしていた。目をつぶって何も考えないようにしてから、施設の入り口へと歩いていった。
 受付は空っぽの状態だった。強すぎる照明が合成皮の黒いソファを照らしている。入り口に突っ立ったままでいると、受け付けに人が現れて僕を手招きした。
 用件を告げると、今日二度目の視線で上から下まで観察された。受付が奥に引っ込むと心臓に冷えた薄い鉄板を差し込まれたようになった。
「彼女は外出しているわ」
救われた思いで礼を告げて外へ出た。さっきまでいた場所に戻ってきて立ち止まった。
 アスカはここで生活している。僕が訪ねてきたことはアスカの耳に入るだろうか。耳に入っても僕だとは思わないかもしれない。今のアスカにアジア人の友達の一人や二人はいるかもしれない。
(分かるにきまってる)
ポーツマスに戻る最終バスの時間が近づいていた。どうして良いか分からず僕は立ち続けた。バス停へ走り出そうとする自分と待とうとする自分が激しくせめぎあっていた。
 8時が迫ると目を閉じ、俯いて、拳を固く握った。遠くでバスのエンジン音がすぎていった。どっと疲れが襲ってきた。
 照明が銀色の光を吐き出してベンチを照らしている。地面が熱を出し切って気温が一気に下がった。凍えるような寒さだった。
 ベンチに座って服の襟をきつく立てて、手を一番温かそうなポケットにしまった。一度だけロビーに行こうかと思って立ち上がったが、すぐに座りなおした。
 バカなことをしているな。僕は自分を哂った。アスカが目の前を通るなんて限らない。職員用の出入り口があるかもしれない。今日は帰らないかもしれない。
 遠くで車が入ってくる音がした。しばらくするとドアが開く音がした。僕は目を開いた。
 赤い車からこちらに背を向けて女が出てきた。髪はかつてのように2箇所で縛ることはせず、重力に任せて流れるままになっている。消えかかっていたアスカの容姿に関する記憶が一気に蘇ってきた。
 彼女は車内を覗き込んで運転手と言葉を交わしてからドアを閉じた。赤い車は少しだけそのまま止まって、それから急発進して方向を変えて出て行った。
 それから彼女が振り返る間は全てが不良品のプレイヤーで再生したようなスローモーションになった。
 二人の人間の間に空白のまま流れた時間がどれほど大きいかに気がついて愕然とした。アスカはすっかり大人の女になっていた。その顔に幼さはひとかけらもなかった。そしてそれは僕も同じなんだろう。
 それで全ての感情は吹き飛んでしまったらしかった。僕はよろめいて立ち、ベンチに座って呆然としているアスカへと近づいていった。
「アスカ」
驚いてこちらを見たアスカがまぶしそうに顔をしかめた。明るい照明の下にいて、相手の顔がよく見えないらしかった。

 アスカが職員用通用口の扉をカードキーで開き、薄暗い廊下を通り、エレベータを呼び、中に入って3階のボタンを押すまで、何も会話は交わさなかった。
「何してるのよ」
ためらっている僕にアスカは言った。僕が入ると扉が閉まった。ほのかに酒の匂いがする。
 三階はマンションになっていて、アスカは振り返りもせずに歩き出した。僕もそれについていった。最初の角を曲がるとそこは壁の無い通路だった。幅は広く取ってあるが、ドアの隣には室外機が設置されていて、歩けるスペースは限られていた。
 さっきとは別のカードを通すと小さい電子音とともに錠が外れる音がした。扉にはプレートが貼ってあり、それでアスカの名前のつづりを始めて知った。室外機の上に傘が二本置いてあった。
 アスカが先に入ってスイッチを入れた。すぐにテーブルを置いたダイニングが見え、小さいボードの上に旧式のテレビが置いてあった。テレビの横にはゲーム機があって、コントローラーの線が物干し綱のようにソファの位置まで伸びている。反対側には花の無いトルコブルーの花瓶が置いてある。
「適当に座ってなさいよ」
アスカは寝室に入っていった。僕は立ちすくんだまま唾を飲み、緊張のために息を吸い込んだ。女の匂いがして慌てて吐いた。
 アスカが入った部屋から着替える音がする。音を立ててはいけないような気がしてゆっくりと奥へと入った。
 部屋は割りと広くきちんと整理されていた。丸いラグの上の小さめのカードテーブル、本棚はほとんど空っぽで、雑誌が何冊か並んでいる。余ったスペースには同じ高さのピラミッドとエッフェル塔の置物が並んでいた。
 カウンター型のキッチンの備え付け食器棚には皿とカップが何個か置いてある。持ち物の数に比べて部屋が広く、スペースが余っている印象だった。
 座って良さそうなのは、リビングのソファとキッチンの椅子ぐらいだった。どちらに座ってもいけない気がして、僕はリビングとキッチンの間に立っていた。
 扉が開いてアスカが出てきた。灰色のスウェットに膝丈の短パン姿だった。髪を緩く後ろで縛っていた。
 僕の姿を見ることもせずにキッチンに入り、冷蔵庫を開いてウォーターサーバーを取り出すとポットに中身を注いでノズルをひねった。食器棚を開いて取っ手に指を通してマグを二つ取り出し、暖めるように火の近くに置いた。
「座れば?」
ありがとう。僕は言ってテーブルの椅子に座った。アスカは一切こちらを見なかった。ポットが沸騰を知らせる甲高い音を立てるまで、背中をこちらに向けていた。
 湯気を立てるマグの一つをテーブルの上に置き、もう一つは手に持ったままこれ以上ないぐらい椅子を後ろに引いてそこに座った。
 セントラルヒーティングの暖房のおかげで、体はだいぶ温まっていたが、それでも伸ばした手は震えていた。
「凍死しに来たの?」
マグを口に当てる直前にアスカが言った。久しぶりの日本語なのだろう。日本語のアクセントが変だった。
「違うよ」
ハーブティーが食道を焼くようにして胃へ落ちていった。それから僕はアスカと目を合わせた。出会ってから初めて彼女の顔全体を見た。
 美人。という言葉の他はしっくりこない顔だった。傷などどこにも無かった。僕はそれから無意識に首へと視線を這わせた。アスカはそれに気がついて視線を外し、思い出したように加湿器のスイッチを入れた。卵形のフィリップス製の加湿器のノズルから白い煙が噴き出した。
 いろいろと、聞きたいことはあるんだけど。そう呟いた。
「どうしてここが分かったの?」
「調べたんだ」
へえ、と意外そうに言ってハーブティーを飲んだ。
「誰も知らないはずよ」
その言葉には自分が監視されているのではないか。という疑念が色濃く現れていた。アスカは、あの狂った組織がまだ残っていて、僕がその使者なのだと疑っているのだと考えを巡らせた。
「マヤさんが教えてくれたんだ」
マヤが?マグをテーブルに置いた。
「連絡なんて一度も取ったことないわ」
「ポーツマスにいるってことだけ。そこからは自分で」
「わかったわ。で、何しに来たの?」
「それは…」
僕は言いよどんだ。アスカが何か言おうとしてもどかしげに首を振った。日本語がうまくでてこないらしい。
「理由がなかったら来ちゃいけなかったかな」
言った後で、僕は後悔した。アスカが間違えて理解しないように願った。アスカは加湿器の白い煙から目を離して僕を見た。
「おなか空いてる?」
意外な質問に僕はつっかえながら、空いている。と答えた。アスカはテーブルを離れて冷蔵庫の中を覗き込んだ。
「何も無いわ」
「気にしなくていいよ」
アスカはそれを無視してシンクの下の戸を開けた。曲がりくねった配水管に混じって、パスタの袋と缶詰がおいてあった。
 アスカはポットに水を足して再び火にかけ、パスタの用意をし始めた。止めようかと思ったが、彼女もきっと時間を必要としているのだと気がついた。
「料理するんだね」
「カップラーメンを作るよりは腕がいるわ。缶詰を開ける腕がね」
「すぐに追い返されるかと思ってたんだ」
「そうしたいぐらいだけど。私もガキじゃないのよ。凍死されたら困るのはこっちだから」
フライパンに缶詰の中身をあけて火にかけると、初めて嗅いだソースの匂いが漂ってきた。
 チーズとオリーブ油にバジルを混ぜたソースを載せたパスタが、新しくハーブティーを満たされたマグと一緒に僕の目の前に差し出された。
 僕が平らげるあいだ、アスカはじっとその様子を見ていた。
(あんた、体格のわりにはよく食うわねえ、私の残りくれてあげる)
14年前の事が不意に頭によぎって、僕は目の周りに異常を感じた。それを少し硬めのパスタが喉につまったせいにした。
 それから僕たちは言葉を少し交わした。お互いが「ああ」とか「うん」とかで終わる会話と呼べないやり取りだった。アスカの過去は触れてはいけない事に満ちていて、僕の手には負えなかった。
「もう寝るわ」
アスカが言い、僕も同意の返事をした。彼女は寝室から毛布を一枚もってきた。
「明日には帰ってくれるのよね?」
「うん、帰るよ」
そう。アスカは言ってバスのほうへ行ってしまった。僕はリビングのカードテーブルをどかして二つ折りにした毛布を敷いた。バスから顔を洗う音と歯を磨く音がしてきた。
「歯ぐらい磨きなさいよ」
もどってきたアスカが新品の歯ブラシを投げてよこした。僕はアスカと入れ替わりに洗面所へ入った。そこはアスカの匂いが強くて頭がくらくらした。
 寝られるわけがなく、何しに来たのかと考え続けた。胸の奥で何かがチリチリと焼ける感じがした。
 飲みすぎたハーブティーのせいで僕は目を覚ました。ゆっくり起き上がって洗面所に向かった。寝室の前で立ち止まり、中にいる人物の姿を透かしてみようとした。
 明日、別れ際に僕はなんと声をかけたらいいのだろう。いろいろ考えて僕はそれを「ごめん」に選んだ。
 その言葉を呟いた時、ドアが開いた。闇に縁取られたアスカの顔があった。彼女も長いことそこにいたのだと知って、僕はうろたえた。
「と、トイレに…」
「こっちじゃない。あっち」
僕が用を済ませて戻ってくると、行く手を阻むようにして立っていた。髪が半分ほどが肩より前にきて鎖骨の上を流れていた。アスカは歩いてきて僕の手首を取った。
 アスカは寝室の明かりをつけなかった。二人で服を脱ぎ、そのままベッドに入った。
 何も無かった。懐かしさで倍になるはずの愛情も、激しい情熱もなかった。それは14歳の子供には決してかからなかった、魔法のようなものだった。
 事が終わって、僕たちは肌を合わさないようにベッドの両端に寄った。天井から吹いてくる暖房の風の音だけがしていた。
 彼女も寝ていないのが分かった。僕も寝られそうに無い。僕はきっかけを探した。
 部屋の外から冷蔵庫の唸りが聞こえて、ベッドから出た。服を抱えてゆっくりと扉を閉めながら壁側に寄ったアスカの背中を見た。彼女は動かなかった。