| 一万倍 ただ眠った。というだけの夢もみないありふれた睡眠から目を覚ましてから、部屋の隅に置かれている小型冷蔵の扉を開いた。上の棚にはオレンジ、リンゴ、水のペットボトル、下には見るからに賞味期限の怪しいビールの缶が二つ、それにピーナッツとカシューナッツとドライチーズを混ぜたおつまみがボトルの形の入れ物に入っていた。 少し悩んで水のペットボトルを引き抜いた。ひどく硬度の高い水で、石灰を溶かしたような味だった。 時計は正午12分前でチェックアウトの時刻はとっくに過ぎていた。もう一泊分の宿泊費を払うハメにならないためには、今すぐにチェックカウンターへ向かうべきだったが、どうしてもシャワーを浴びておきたかった。 シャワーを浴びて荷物をまとめてから狭く古いエレベーターで1階に下りた。 カウンターに男の姿はなかった。奥の小部屋とカウンターを仕切っている白いビニールカーテンにテレビの映像が透けて見える。 声を出して呼ぶと昨日と同じ格好をした男が出てきた。昨夜よりも肌が脂にまみれていた。 彼は「何しに来た?」という顔で僕を見た。徹夜と酒で焦げた脳みそとドロのような会話をして、僕はもう一泊することになった。荷物を部屋に放り投げて戻ってくると、彼はすでにカーテンの後ろに引っ込んでしまっていた。 呼び鈴を連打して鍵を渡した。 「二泊目以降は5%の割引があるんだ」 うわべだけ申し訳なさそうに言った。 「行きたい場所があるんだけど、ここで行きかたを教えてもらえる?」 男はカウンターの上に黄ばんだ地図を広げた。地図の横の黒いペン立てをどかし、ノートの切れ端をそこに置いた。 「ここに行きたいんだけど、どうすればいいかな」 彼は手を出して切れ端をつかんだ。ゼノの皮バンドタイプのミリタリー腕時計が犬の首輪のように濃い体毛を押さえつけている。 「観光するにはうってつけの名所だ」 男は精神病患者施設の名前から目を離して僕を見た。 「知り合いがいるんだ」 「それはそれは。同情するよ」 本当の感情とは逆の表情をしてしまう病気があるとしたら、男は確実に罹病しているに違いない。 「どう行ったらいい?」 「タクシーでいきなよ」 僕がむっとした目を向けると、男はそれをかわすように肩をすくめて手を持ち上げた。 「そこが大聖堂みたいにツーリストに人気の場所だったら良かったんだがね」 彼は切れ端の裏の走り書きに気がついたが、それが外国語で読めないと知ってがっかりしたようだった。 「駅のバスターミナルで聞くといい」 切れ端をひったくるようにして奪い返してから、僕はエレベーターに乗って部屋に帰った。そこでメモに住所を書き写し始めたが、筆記体のドイツ語は何と書いてあるのかさっぱり分からなかった。仕方なくそのまま切れ端をポケットにしまった。 外は薄い霧に覆われていた。町並みは消しゴムでこすったようにところどころが途切れていた。 バスロータリーには四台しか止まれるスペースがなく、そのうちの一つに違法駐車のトラックがいて、今まさにレッカーで移動されるところだった。黄色い腕章をつけた小太りの中年女性がその場を仕切っていて、レッカー車にクレーンで連結されたトラックの前輪が持ち上がると、待たされた乗客たちから拍手が起きた。 そこにサブウェイの袋を下げた運転手が戻ってきて大声で怒鳴り始めた。腕章の女性と言い争いが始まり、乗客の大半は拍手をやめて新しいショーの観客となった。何人かは女性に味方して火に油を注いだ。 取り巻きに加わって後ろからそれを眺めた。 観客の背中が邪魔になってよく見えない。僕があきらめて視線を駅の時計に向けると目の前の観客の輪がさっと開いた。 突き飛ばされた腕章の女の背中がよろめきながら僕に近づいてきた。僕はその背中を受け止めた。背骨が折れそうなほど重かった。 運転手が何か吐き捨てて去っていくと、観客たちは何事もなかったかのように散っていった。 「大丈夫…ですか?」 女性は僕と視線を合わせると、何事もなかったように僕の手を離れてこちらを向いた。 「トラブルには慣れっこなのよ」 彼女が取り巻きに何かシャレた事を言い、周囲の者は笑った。それを合図に駅前は通常の姿に戻った。僕は腕章の上に刺繍された文字を読みと取ろうとしたがドイツ語だった。 「ガイドですか?」 彼女は首を振った「ボランティア。ここで変な連中が演説や布教活動をしないように見張っているのよ」 「そうですか。ありがとう」 僕が背を向けると、彼女は不必要な強い力で僕を引き戻した。 「あなたツーリストね?どこに行きたいの」 彼女は駅前に設置しておくにはぴったりの、人に親切がしたくてしょうがない。というタイプの人間らしかった。 僕はちょっと考えてからノートを差し出した。目的地を見ると彼女の濃い眉が大きく上に動いた。 「どちらに行くにもバスね。最初の方、アヴォルニソ療養所は駅の12番線。セントリゲス病院は10番」 「近いのはどちらです?」 「アヴォルニソ療養所のほうね」 「どれくらい時間がかかります?」 「さあ、30分ってところじゃないかしら」 「バス停の名前は?」 「施設名と同じバス停がありそうだけど…わからないわ」 「もう一つの方は?」 「だいぶ遠いわね。1時間以上かかる。こちらは大きい施設だから同じ名前のバス停があるはずよ」 ちょっと待って。彼女はそう言ってこちらがびっくりするほどの大声で乗客たちに向かって喋った。そして僕を指差す。乗客たちの視線が僕に集中して、それから口々に何か言った。短い言葉のやり取りがあって僕の方に向き直った。 「アヴォルニソのほうにも同じ名前のバス停があるそうよ。ちょうど出発するバスがあるから乗りなさい」 強引にバスの一つに僕を乗せると、すぐに扉が閉まって走り出した。 霧を強引に切り裂いてバスは進んだ。景色がまったく見えなかった。駅名を告げる放送を聞き逃せないので、他の事に、例えばシゲルに預けたままの部屋の荷物の行方だとか、火事を起こした後のウエストエリアがどうなったかとか、そんな事を考える余裕はなかった。 アヴォルニソの名前を聞いたような気がして僕が立ち上がると、乗客の一人がまだだ。と教えてくれた。僕は座りなおしてヘルガの走り書きを何度も読み直した。 僕はふと、もしも目的地にアスカが居たとして、それで僕は何をするつもりなのだろうかと思った。驚いたことに僕はこれまでその事については何も考えていなかった。 最後に分かれてから十四年後のアスカ。どんなにがんばっても僕はその姿を想像できなかった。それどころか当時の顔すら忘れてしまっている。 今度は確かにアヴォルニソの名前を聞いて立ち上がった。今度は誰も僕を止めなかった。 「ソウリュウ・アスカ?」 今度は何も考えずに終点を待つだけでよかった。バスは混んでいてつり革をつかんで立った。アスカに傷跡が残ったという事実に14年も気がつかなかった愚かさで逃げ出したい気分だった。 |