| 一万倍 晴れてこの施設を出ることになった人が職員たちと最後のお別れをするのは午後からと決まっていて、受け付けはそれを迎える家族で溢れていた。私が見回すとその中から大柄の男性が近づいてきた。私は心の中で大きくため息をついた。センスの欠片もなかったポニーテールを短く切って、今はブロンドの髪がハリネズミのように立っていた。分厚い胸を見せびらかすように両手を広げて懐かしさを表現した。 「元気そうだね」 「おかげさまでね」 皮膚移植手術を受けた時、担当医の助手をしていた頃よりも垢抜けてグレーのコートのしたに薄黄色のシャツを着ていた。その上等さが彼の順調な出世を物語っていた。 「どうして来たの?」 「担当した患者の心配しちゃいけないか?定期検診にも来ないで」 「ここはあなたの得意な場所じゃないでしょ、ここでは傷跡を隠すのが仕事の医師は要らないわ」 グレイザーは肩をすくめて首をかしげた。「ウチは出張検診はしてないよ」「じゃあ」私は両手を拳にして腰骨の上に乗せた「何しにきたのよ」 「勤務を邪魔したことは謝るよ。ただ心配だったんだ」 「それが本心とは思えない」 私がそっぽを向くと、グレイザーは口笛を吹いた「大人っぽくなった」 「馬鹿にしてんの?」 わかったよ。グレイザーの楽しんでいるようなそぶりだった。 「ディナーに誘いに来たんだ。それも目的だけど、治療の経過を診たいってのも嘘じゃない」 「そんな実現の可能性のないことをわざわざ言いに来たの?」 グレイザーは花束を抱えている職員をちらりと見た。私は視線をそらさなかった。 「君が、電話に出てくれれば来なくても良かったんだ。受付を通さずに済む連絡先ぐらいは教えてくれないか?」 グレイザーは私が彼の勤めている病院に初診に行った際に知り合った。その時はまだ私の顔と腕には、普通の人なら一目見て恋愛対象失格の烙印を押す傷跡があった。 単にそういうのに見慣れていて免疫があったのか、彼の言葉を借りるなら運命的なものを感じたのか、それから手術を終えるまでの間、何度か誘われた。私はその全てに無言で返事を返していた。 私にはうっとうしい以外の何物でもなかったけれど、クリスにはそれが彼の持つ美徳に写るらしく、クレイザーはクリスにとって、私とくっつけたい男ランキングでナンバーワンになっている。 「おケツの調子はどうだ?」 「きれいに剥いでもらったおかげで何ともないわ」 それは良かった。目じりが下がって、金色の濃い眉が動いた。それが面白がっている表情に見せてしまう癖なのだと分かった。あまり無駄話をする気はなかった。同僚たちは世話した患者を送り出すよりも、私とグレイザーの関係を推測する方に興味がありそうだった。 「いつなの?」 「今日の夜。ポーツマス駅の近くの<シャンス>だ」 「酒は嫌いなの」 「ボトルの中身をグレープジュースにしてもらうように頼んでおく」 彼は私がここで世話をされる側の人間だったことを知っているのだろうか?考えを巡らしてみたが出た答えはノーだった。 傷を消して以来、見舞いに来た家族から、時には患者から声をかけられる機会は増えたが、全て同僚のつげ口で潰されてきた。私自身にも人と深い付き合いになることへの恐れがあり、それでいいと思ってきた。 だがグレイザーは傷のある私は知っているが、それ以前の私のこと、ベッドの上でトイレに行くことも忘れていた私のことは知らない。 他人の悪意にまみれた告げ口ではなく自分の口から話すことが私には必要なのだ。 「わかった」そう答えるとグレイザーはうなずき、上着のポケットからフィリップス社の折りたたみ式携帯電話を出した。折った面から黄色い付箋がはみ出していた。 「店の住所と俺の番号が書いてある。迎えに来た方がいい?」 「自力で行けるわ」 邪魔して悪かった。昼なら時間があると思ったんだ。グレイザーは周りを見渡してそう言った。ロビーはまだまだ人で混みあっていた。 「何かあったらそれで連絡してくれ、キャンセルの連絡が来ないことを願ってるよ」 「行くわ」 グレイザーは満足そうにうなずいて、じゃ、と言い残して出て行った。 私が戻ろうとするとクリスが待ち構えていた。想定外に<今夜の予定>が本当になってしまったわけだった。 日が暮れてから、過剰な期待を寄せるクリスに押し出されるようにして、ダウンタウン方面へ向かうバス停に向かった。 寒さはそれほどではなく、口が隠れるほど深く巻いていたマフラーを巻きなおした。悩んだ末に一台をやり過ごして、安い方のバスに乗った。私以外には裕福には見えない若い家族が最後部にいて、少年が今日登ってきた山のことを大声で父親に言って聞かせていた。 バスは質の悪いガソリンを飲まされた腹いせに真っ黒い煙を後続の車に浴びせかけている。自転車の方が早いのではないかと思えるような速度だ。 今頃、クリスが嬉々としてこのことを同僚に話している頃だろうと思った。そういう点はいただけないが、私のミスのカバーをしてもらっていることを埋め合わせると我慢するしかなかった。 シャンスはポーツマス駅前の治安の良い地域にあるビルの一階のフロア全てを使っていた。大通りに面した一角はガラス張りになっていて、庇からはガラス玉をつないだ装飾が垂れ下がっていた。中に通された光ファイバーのきらめきにあわせて点滅を繰り返している。 約束の時間に少し遅れていくと、店の前でグレイザーが腕組みして待っていた。私の姿を見ると安心した表情で手招きして、扉を開いた。 店内はほぼ満席で、片側の壁に下からの照明に照らされた酒瓶が並ぶバーカウンターがあり、チョッキを着たバーテンの男女が注文をさばいていた。その手前のケースにはパイが並べられていた。ガラス張りのケースの縁取り以外には金属が目立たない店で、光りは抑えられていて客の表情はよく見えなかった。 予約席のプレートが置かれたブースまで誘導されながら、半分ほど行ったところで立ち止まり、ライトアップされているピアノとヴァイオリン、チェロを見た。グレイザーが気がついてウェイターを飛びとめてこっちへ来た。 「弾けるのか?」 「いえ、弾けないわ」 「だいぶ古い、100年以上前のヴィンテージだそうだよ」 私たちが席に着くと、クーラーに氷漬けされたワインが出てきた。グレイザーはウェイターにボトルを拭かせてから、あとは自分でやるから。といって下がらせた。 「グレープジュースじゃなさそうね」 「まさか」 濃い紫色の液体を口に含んでから、初めてグレイザーの顔をしっかりと見た。 「来なかったら、身を引こうと思ってた」 「そうした方が良かったかもね」 前菜のオニオングラタンのスープが運ばれてきた。 深刻だな。グレイザーは木製のスプーンを取り上げながら笑った。「まるで別れる恋人の会話だ」私もスプーンを取って軽く笑った。 「ご馳走になるわ」 二人の会話はお互いの仕事から始まったが、それ以後は空気の抜けたバスケットボールのように弾まなかった。もともと共通の趣味などありそうもなかったし、少なくともグレイザーがTVゲームに関してはテトリスも知らない人種だとわかった。私も彼が、もしもオリンピックの正式種目ならドイツ代表に選ばれると話したスポーツのこと、マレッケーとかバウンダリー・ラインなどと言われてもさっぱりだった。 クレイザーは医師免許試験を合格した持ち前の頭脳で話題のレベルをだんだんと下げて、話題は女子高生の好きそうなゴシップまで落ちたが、これはお互いに専門外だった。彼は広大な宇宙をさ迷うように様々な角度から突撃を繰り返しては追い返された。 私もまた一般的な会話をするのに、セントリゲス療養所で過ごした期間があまりに長かったことを痛感していた。アルミホイルの容器に入れられたチキン・ポット・パイが運ばれて、グレイザーは3杯目のビールを注文した。 「君の傷は14年ものだったね」 ボトルを取り上げてようやく飲み干した私のグラスになみなみと注いだ。意識的に避けていた最後に残った共通の話題に触れた。という感じだった。 「そういうことは患者には聞かない方がいいわ」 「患者と医師はこんなところで一緒に酒を飲んだりしないよ」 よほど気難しい女に見られているだろうな。と私は思った。 「箱舟と同じ年だ。あの年は最悪の年だった」 「ええ」 ワインを少し多めに口に含んだ。 「俺は高校生で、恋人がいたよ」 彼はその恋人のことを少し話した。私はワイングラスを脇にどけて薄めのダイキリを注文した。 「彼女は不完全に戻ってきたんだ」クレイザーはチキンとほうれん草以外の物もかみ締めて言った。 「不完全?」私はフォークでチキンを探す動作を止めた。 「箱舟の後、性格が変わってしまった人間の例はいくらでもある」 クレイザーがビールを飲んだのに釣られて私もダイキリを口につけた。割合を間違えたのか、異常に濃かった。 「極端に変わったわけじゃないんだ。具体的に指摘しろと言われても困るような些細な変化だった。でも俺を含めて周囲の人間はみんなそう感じていたよ」 空になったアルミホイルの器の縁を潰して前へ押し出した。 「彼女は箱舟の最中の記憶があるって言っていたよ。何でも水になって海に溶けていたそうだ。それ以上のことは言わなかったけどね」 ウェイターを呼んで食器を下げさせるついでに4杯目のビールを頼んだ。アルコールが効いている様子はまったくなかった。 「それで、その子はどうなったの?」 「画家の夢は諦めた」 「それだけ?」 「そして人間は絶滅すべきだ。っていいはじめた。あとは分かるだろ」 「人類排斥運動に加わったのね」 「そうだ。それからは目を背けたくなるドラマが展開されたってわけさ。今は彼女がどこで何をしてるのか誰も知らないよ」 椅子に深く座りなおして、馬鹿げてる。と言った。新しいビールが運ばれてきた。店が騒がしくなり、楽器ケースを抱えた数人の男たちが入ってきた。 彼らは客の声に答えながらまっすぐピアノのある方へ進み、そこで荷物を解いて演奏の準備に取り掛かった。 グレイザーは少し沈黙してから「君のことも話してくれないか?」と言った。 「話しても信じてもらえない。あなたたちが箱舟と呼んでいるものを私は体験してないのよ」 「まさか君はまだ14歳以下だなんて言わないよな?」 「本当に知らないの」思わず語気が荒くなった。 「気分を害したなら謝る。箱舟は酒の席の話題にはスモークチーズと同じぐらいありふれたものだからね」 私は何も答えなかった。 デザートが運ばれてくる頃には、何一つ嘘をついていないのに、彼に対してかなり申し訳ない気持ちになっていた。 愛というには薄く、好意というには濃いものを彼から感じる。彼の知らない自分の過去を告げることでその感情の胸に銀の十字架を打ち込んで息を止めようとしている。 一方でたとえ萌芽に過ぎなくても、自分への愛を断つことに激しい躊躇も感じる。自分がどれほど愛という栄養に欠乏した人生を送ってきたかを思った。 傷跡が疼き出すのをはっきりと感じた。 演奏家たちが楽器の調律を始めて、バラバラの音楽が店内に響いた。ピアノだけはヴィンテージを使うらしかった。 途切れた会話と、話を切り出す機会を、デザートと音楽が引き取ってくれた。2曲目が終わって小休止となったところでグレイザーに頼んで出ることにした。 グレイザーが指でウェイターに合図するとすぐに勘定書がテーブルに置かれた。それを取って私に見せないようにして額を確かめてから、クレジットカードとチップの紙幣を挟んでウェイターに返した。 送るよ。グレイザーは言ってキーホルダーの鉄の輪に指をかけて音をならした。店の駐車場は満杯で通りを3ブロックほど歩いた有料駐車場に入った。 走るのが不思議なボロ車の中で赤いアルファロメオはひときわ異彩を放っていた。まだ人工皮の匂いのする助手席に体を沈めた。運転手がハンドルを握ると自動的にエンジンがかかった。 「飲酒運転ね」 「それはホテルで酔いを醒ましたいって意味か?」 「ごく一般的な不道徳を咎めただけよ」 「ならドライブは?」 「遠慮しとく」 車は駐車場を出て大通りを快調に走った。まだ日付が変わって何分も過ぎていなかったが、通りに人影はまばらだった。 立ち枯れたまま放置された街路樹が街灯の光りに照らされて絵に描いた稲妻のように見えた。 クリティナホテルの角を左折するとアルファロメオの白いヘッドライトが一番強い明かりになった。さらに西に向かって住宅街に入った。灯のともっている家は無く、静まり返っている。車内もそれに負けないぐらい静かだった。 この地区の住人にサービスを提供するはずだったこの商業地区も役割を失い、錆びたシャッターを下ろした店が続いている。 静寂を押し付けられると、思った以上にワインが聞いているのが分かった。からからに乾いたコインのような月が、ビルに見え隠れしている。 「思い出話はいけないよな」 グレイザーがぼそっと呟いた。 「構わないわ。気にしてない」 右目の上を触っていた。皮膚の下で傷跡が脈うっている。 「傷跡は消えている」 「でもよく疼くのよ」 「それは精神的なもんさ。錯覚だよ」 「私の傷跡はひどかった?」 だいぶね。対向車が無いのを確認してヘッドライトをハイビームに切り替えた。 「手首から二の腕にいたるまでの裂傷、鋭い何か、おそらく刃物でつけられたものだ。生傷としては顔のほうがひどかっただろうが、傷跡としては腕のほうがずっと問題だった。君のことは病院内でちょっとした話題になったよ」 対向車が来てグレイザーはハイビームを止めたが、対向車はそのまま走ってきた。社内が強い光りで溢れて目をしかめた。グレイザーはくそったれ。と言ってすれ違いに中指を立てた。 「先生、俺の尊敬するノイビル医師が執刀の立候補したんだよ」 「消し甲斐があったってこと?」 「そういうこと」 グレイザーは前方から視線を外してこちらを見た。 「君には感謝しなくちゃいけない人が二人いる」 「ノイビル医師とあなた?」 「半分は正解」車は高架アウトバーンへのジャンクションを登った。視界が開けていき、眼下に町の夜景が広がった。 「ノイビル医師と、傷の初期手当てをしてくれた人だ。初期手当てがしっかりされていなかったら、そんなにきれいに消すことはできなかった」 アクセルを踏み込むと、赤い殻に覆われたエンジンがうなってぐんぐんと加速していく。 「先生は君を治療した後、オペからは身を引いたんだ」 私は手でもう一方の腕を撫でた。低い町並みのずっと上に小さい月が吊るされたように位置している。月の光りは夜景の色にほとんど影響を与えていないようだった。 これとよく似た景色をミサトという女性に連れられて見せてもらったことを思い出した。手すりに肘を乗せて景色を眺めるミサトの姿はずいぶんと昔のことで、私の別の人生で起きた出来事のようだった。 彼女も胸に大きな傷跡があった。けれど彼女はそれを隠そうと、さすがに他の同居人がいる時はおおっぴらに見せなかったが、女二人の時は風呂上りにブラもせずにキッチンでビールを飲んでいた。 ある時、私は幼さに任せて彼女になぜ傷を消さないのか?と訊いたことがあった。彼女は嫌な顔もせずに(これは私と私を守ってくれた人をつないでいる証しだからね)と言った。 私は彼女のように傷跡と仲良く折り合いをつけて人生を送る気持ちにはなれなかった。 彼女が生きていたら、もういい年になっているはずだ。今ならあの頃とは違った会話ができるかもしれない。 「また君に連絡していいんだろうか?ラングレー」 現実に引き戻された。「いいわ」 「じゃあ、電話は預けておくよ」 「仕事中はかかってきても取れないわ。部屋に置きっぱなしにする」 ああ、グレイザーは片手でハンドルを握り、もう一方の手の肘を窓際に置いていた。 「まあ、なんだ、次回は映画かエクササイズか、そんなものにするよ」 一般的な恋愛っていうのは、こうして距離を縮めていくものなんだろうか? 職員専用のスペースに何台か止まっているほかは、施設の駐車場に止まっている車はまったくなかった。 その中央に停車してグレイザーが手元の装置を操作すると、私の側のドアの鍵が外れた。 「一度、ベルリンで検査をしよう」 「ええ」 おやすみの挨拶を交わしてから車を降りた。グレイザーは運転席から私を見つめていた。それからバックして方向を変えるとウインカーの点滅を残して猛スピードで去っていった。 私はよろめくようにしてベンチに座った。空気は身を切るように冷たかった。これ以上ないほど疲れていた。 (私にはムリかもしれない) 普通の幸せというヤツを手にするには、自分にはあまりに秘密と引け目が多すぎる。額を抑えて頭を振った。近づいてきた人影にはまったく気がつかなかった。忘れていた名前を急に呼ばれて、驚いて顔を上げた。 |