一万倍

 夢と分かっているのにそこから抜け出すことができない。
 凄まじい激痛が右手の甲から肩口までを駆け抜けて、そこで兎のように跳ねた。そして猛犬の牙のように私の右目の上、眉の上から眉尻にかけて突き刺さった。
 私はほとんど断末魔に近い叫びを上げてのけぞり、操縦桿から左手を放して傷口を押さえる。釘を打ち込まれたような痛みに意識がかき消されそうになる。目に血が入って視界が真っ赤に染まり、視点が合わずに全てが二重に見えた。
 気を失ったら殺される。私は操縦桿を握り、狂ったように動かした。しかし私の機体は全ての力を失っていて、操縦室は私を閉じ込めるだけのカプセルに成り果てていた。
 右手がまったく動かなくなり、私は手を傷口に戻し、座席に身を倒して呻き声をあげた。腕の傷から溢れる血でスーツの腕が水風船のようになっている。私は震える体の首だけ動かして周りを見た。カプセルの壁は曇った曲面鏡のように歪曲した私の姿を映している。その顔は血だらけになっていた。
 やっぱり私はダメな奴だった。私は諦念と虚しい安堵の混ざった気持ちでこの世の全てにさよならする用意を始めた。
 私が眠ろうとすると、鈍い衝撃が操縦室を揺らした。敵が機体の装甲板を強引に剥いでいるのだと分かった。その度に操縦室はドラム缶を叩かれるような音を立てた。
 操縦室が斜めになり、空中へ持ち上げられる感覚がした。天へ登っているのだと私は思った。

 看護婦の白衣に入れたポケットのベルからカノンの音楽が流れ出して「ここにいるのよ」と彼女は私に言った。
 私は人形を両手で抱きしめた。「ここにいればいいの?」
「そうよ」
頷いてから、視線をガラス越しの病室へ向けると、ママがこちらを見ていた。私は背を向けている看護婦の腰を揺すった。「ママがこっちをみているわ」私は言った。「中に入っていい?」
看護婦は振り返らずにベルの液晶を見つめながら言った。「だめよ」
 私はママがまだこちらを見ているのを確認してから「でも、見ているわ」
「入ったら、大変なことになるわよ」
「入っていい?」
「人の話をちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」また彼女の腰をこんどは強く揺すった。「いいでしょ?」
「じゃあ」彼女は腹立たしげだった。「行けばいいわ」
その少女は小走りに病室のドアへと走っていった。「知らないわよ」看護婦は言った。
「あなたのママがあなたに言うことを、私は聞きたくないわ」
「大丈夫よ。ママ、私のママだもの」
少女は背伸びしてドアノブに手をかけようとしている。何度も失敗した。
それを見ていた別の看護婦が言った。「あいつは娘のことなんて分かってないわよ」「一度、分からせた方がいいのよ」看護婦はベルに視線を戻した。
「むごいわ」
「知ってる」
「言って聞かせたほうがいいわ」
言ったわ。看護婦は続けた。「何度も何度もね」
看護婦たちはドアを開くことに成功して中へ入っていく少女を見た。
 少女はベッドの上の母親の前へ行き何か言って手を伸ばした。その手を激しく叩き下ろして母親が怒鳴り始めた。次に母親が手を上げた時、二人は目をそらした。
 少女が病室を飛び出してきた。大きく腫れた頬が涙で光っていた。「嫌い」少女は叫んだ。
「嫌い、嫌い、死ねばいいのよあんなやつ」
病室ではママが私の落とした人形を踏みつけていた。

―――――

 目が覚めて気がつくと、心臓が壊れた猿の玩具がならすシンバルのように早くなっていた。横になったまま体をずらして床に足を下ろした。
 テーブルには昨日の夕食の残りがそのまま残っていて、マグに半分ほど残った匂いの消えたハーブ・ティーを飲んだ。
 手を突いて額の汗をぬぐった。それから右の眉の上から眉尻までを指でなぞる。長袖のTシャツの袖をめくって毛の無い腕を見つめる。
(大丈夫。クリーンだわ)
洗面所へ行って顔を荒い、タオルで顔を拭きながら鏡に映った顔を見ると、恐怖はゆっくりと消えて言った。心臓が自分のペースを取り戻すのを待ってから服を脱いで裸になり、シャワーを浴びた。
 裸のまま椅子に腰掛けて一息ついて、キッチンで湯を沸かした。沸騰するまでに着替えるために部屋に戻った。
 ベッドはレイプでもされたみたいにぐちゃぐちゃになっていた。着替えてシーツと毛布を整えているとキッチンから甲高い音が鳴り始めた。
 マグから湯気が立ち上り、ティーバッグがソーサーに水溜りを作るのを見ていた。左手で何度も自分の腕を撫でた。
 施設で回復してからそのまま職員になり、一年前に貯めた金を全て費やして皮膚の移植で腕と眉の上の傷跡を消した。やっと開放されたと思ったのに、今度は夢を見るようになった。
 かつて悩まされた母の夢。それもここ最近は毎日見るようになった。
 クリーンな皮膚の下で傷跡がじくじくと疼くような気がする。じっとしていることができず、シンクに水を張って洗剤を溶かし、テーブルの食器を放り込んだ。ゴミ袋の口を縛ってキッチンの隅に寄せて新しい袋をダストボックスに設置した。
 それから浄水機能付きのピッチャーに水を満たして冷蔵庫に戻し、読みかけの雑誌を買った順にマガジンラックに並べてから、ラジオのスイッチをひねった。
すぐに民営放送局の朝のニュースが流れた。髪をとかしている時に日本が東京湾の干拓に乗り出したことを告げ、成功すれば海面上昇で失われた土地の30%を取り戻せるとのことだった。
 時間を持て余してゲーム機のスイッチを入れた。何も考えずにゲームに没頭しているとドアのベルが鳴った。無視していると、クリスティーネが勝手に入ってきた。前髪を残して残りは後ろで縛るいつものお仕事用のスタイルだった。
「朝っぱらからゲームなの?」
さっきまで私がいた椅子に座り、画面の上から降ってくる色とりどりの物体を見ている。
「ヒマだったのよ」
「腐るわよ。女が」
振り返るとクリスはテーブルに肘をついてこぶしで顎を支えていた。東欧の血が入っているから顔が丸くて目が大きい、髪は男好きする黒の混じった人工でない金髪だ。瞳は寝る前と起きた直後だけはブラウンで、それ以外の時間はブルーだった。
 作業用の青いパンツをはいて、組んでいた嫌味なぐらい長い足をといてキッチンに向かい、冷めかけていたガスコンロに火を入れた。
「あなた、今夜は用事がある?」
洗剤を溶かした水に沈んでいる食器を見て、戸棚から手馴れた手つきで自分用のマグを取り出した。
「あるわ」
「ゲームとデートでしょ」
「そうよ」待ちかねた光り輝く物体が落ちてきて、山積みになっていた物体が次々に消えた。
「前に紹介したシェルツがまた会わせろって私にせがむのよ。人が顔も洗わないうちから電話してくるんだから」
「だれだか忘れた」
「エリッド・シュケイクみたいにかっこいいエンジニアの人よ」
「ますますわからない」
「訂正。ミスタードイツって顔のちょっとだけメガネを選ぶセンスには欠けた人」
「ああ、思い出した。私はそんな気はないわ」
火を止めてポットをテーブルまで運んできて二つのマグにお湯を注いだ。
「私にそういうお節介はいらないから」
「なんのために傷跡を消したのよ」
操作を間違えて画面いっぱいに敗北の文字が出た。ゲーム機の電源を切ってクリスと向かい合って座った。
「彼はあなたに譲るわ」
あなたねえ。半分ほど飲んだマグの縁を指でなぞった。「理想が高いのか、単に男嫌いなのか知らないけれど、私みたいに適齢期ってのが過ぎたあとで後悔しても遅いのよ」
「だから」マグを両手で包んだままクリスを見た。傷跡がまた疼き出してきた。「あなたに先に行って欲しいのよ」
「今日はホントに用事があるのよ」私はまた嘘をついた。
「あなたには本当に感謝してる。でも私はもう病人じゃないし、少しずつだけど自分の生活も築いているから、もっと自分の方の面倒をしてあげて」
友情を込めた目でクリスを見ると、彼女も同じ目でそれに答えた。わかったわ。クリスはしぶしぶという態度を前面に出して立ち上がった。
「ただ、ゲームはあなたを幸せにしないわよ」
私は話題を変えた。
「朝食は食べた?」
「まだよ何かあるの?」
「ないわ」
「じゃあ食堂に行きましょう。今日はバナナとチョコのマフィンよ。ここに来る時においがしたの」
「先に行ってて、すぐ行くわ」
クリスが出て行ってから鏡の前に立ち、ワックスのプラスティックの蓋を開けて、髪につけた。前髪は念入りになじませてから眉の上に垂らした。傷跡は消えたがこうして隠さないと気が済まない。
 宿舎を抜けて食堂に入ると甘い匂いが鼻についた。クリスが手を振って私を隣の席に招いた。そこにはトレイの上に私の分のマフィンとボウルに盛られたサラダ、コーヒーが置いてあった。
「マフィンぐらい自分で選ばせて欲しいんだけど」
「どうせチョコでしょ」
まあね。マフィンをかじりながら言った。まだ開かれたばかりなので食堂に人は少なかった。早起きの人たちは朝食を取りながら本を読んだり、備え付けのテレビから流れるニュースを見ていた。あと30分もすれば人が洪水のように入ってきてマフィンの争奪戦が始まり、低血圧者はつぶれたマフィンか、サラダだけの朝食になる。たいていの場合、私は後者だった。分裂病の症状が体質にまで変化してしまって朝はひどく辛い。
 紙だけ残ったマフィンを空のボウルに投げ入れて、クリスは細い指でシュガーの封を切った。マドラーでニセモノの砂糖を琥珀色の液体に溶かしながら
「ここを出る日は決めたの?」
「決めてないわ。でも近いうち」
「シャルロッテンブルガーの近くで親類が古物商をしているのよ。良かったら紹介するわ。あそこなら朝も遅いし」
「ほんっとうにお節介ね。奉仕はここでは最も尊重される精神だけど、それで自分が損をしたら意味がないのよ。自分が行きなさいよ」
「私はあんな埃っぽくてカビ臭いところは嫌よ」
「そんなところに私を送り込もうとしてるのね」
「あなたなら」コーヒーには口をつけずに私のほうを見た。さっきまでブラウンだった瞳が今はブルーになっていた。「似合うと思うわ」
「埃っぽくてカビ臭いのが?」
相変わらず皮肉っぽいのが直らないな。と少し反省した。
「あそこまで重症だったあなたが、ここまで回復して今は世話をする側に回ってる。それはこの施設の入り口の、あの下らないゲートボール大会のトロフィーや政府の感謝状とかぜんぶ取り払って金色の額縁に入れて飾っていいことだと思うのよ」
クリスはカップの中でくるくると回る液体に視線を落としていた。深い慈愛とそれに見合う美貌を兼ね備えた彼女には女として絶対に勝てないと思う。しかし本人は自分のそういう魅力にはまったく気がついていないらしかった。
「あなたにはもっとふさわしい場所があると思う」
「古物商の女主人にでもなろうかな」
「それは外界に出て行くきっかけでいいのよ。自立へのステップとしてね」
クリスは微笑んで背もたれから背中を離し、残った砂糖を私のコーヒーに注ぎ込んだ。
「がんばりなよ、見ててやるからさ」
「見てるだけ?絶対ムリそうだわ」
食堂に人が溢れてきて、マフィンの山はあっというまに消えて、テレビの音声は話し声にかき消された。こうして一日の始まりに友と話せるのはいいことだった。席が全て埋まってしまって空席待ちが出る頃にはお互いに笑いまくって、すっかり疼きも吹っ飛んでいた。
 笑い疲れて部屋に戻ってカーテンを開いて窓に寄りかかった。ガラスに映った自分の顔を見つめ、その半透明の瞳を通して外を見る。靄で見えなくなるまで平らな地面が続いていて、雪の隙間から土が所々に見えた。空は相変わらず靄との境界線が分からない曇り空だった。とても短い夏の間、ここは一面の畑になって収穫されたジャガイモはだいたい蒸されるか茹でられるかして食堂のトレイに乗って出てくる。
 ここともお別れね。私はもう一人の自分に呟く。
(私は怖くないわ。普通の人間になるのよ)
それから見えない傷跡を手で押さえて、自分でもわかる哀しい顔で外を見ていた。
 命の葉セントリゲス療養所はセントリゲス教会が建てた4棟から成る施設で、ポーツマス市街から車で1時間ほど走った平野の中にあった。
 サッカー場を二十個も並べた以上の敷地のほとんどは、整備されたグランドや公園、それに入所者に自活する喜びを教えるための畑に費やされている。4棟のうち2棟は心の病を持った人たちのため、1棟は通常の病院、残りの1棟は宿舎を含むここで働く人たちの建物だ。
 四つの棟は四角形の角にそれぞれ配置されて、屋根のついた渡り廊下で結ばれている。病院としての力は貧弱だったが、精神病者の療養施設としての実力は確かなもので、いつでも満杯の状態だった。回復した家族を乗せて出て行く車があれば、同じだけの新しい患者を乗せた車が入ってくる。
 私は食堂でクリスと別れた後、他の職員と一緒に西棟へと向かった。西棟は他人に危害を加えるような心配のない軽度の罹病者が入る棟で、その中にはアルツハイマー病の老人たちも含まれていた。東棟はクリスに言わせると「ハードな職場」で凶暴性のある患者や麻薬中毒者が入っている。
 四人一組になって朝の打ち合わせを終えてから、担当する患者の情報が書かれたファイルに目を通し、それから世話をする側とされる側を隔てるドアを開ける。
 そこはとっくに一日が始まっていて騒がしかった。ロビーにはランニングシューズを履いた患者が集まっていて、その中の何人かが私に挨拶した。
「ヘロー」私はそれに答えて同僚たちと二階への会談を上がった。中二階の踊り場で都合よく降りてきたヒャルトに出くわした。呼び止めると、彼は徹夜で血走った目をこちらに向けた。夜勤で目の下の皮膚が黒ずんでいた。
「話があるの」
「夜勤が終わったところだよ。332号室の患者が床掃除用の洗剤の原液を廊下にぶちまけたんだ。おかげで3階の廊下は一年分掃除されたぐらいにピカピカだ」
お気の毒に。そう答えてから、昼食時に時間がとれないか。と訊いた。ヒャルトは少しいぶかしげに私の顔をみてから「いいよ」と言った。
「大体の用件だけでも今教えてくれないかな」
「後で言うわ、あなたの睡眠を邪魔することになるけど」
構わないよ。そう言い残して階段を下っていった。
 それからいつもどおりの仕事をこなして、ランチをキャンセルして職員棟へと向かった。
 40人単位のグループ長には狭いながら専用の個室があって、カウンセリング室も兼ねていた。患者のためでなく職員のためだ。
 前は何度も通ったが中を見るのは初めてだった。ノックして入ると、机の上に置くには大きすぎる観葉植物が目に入った。ヒャルトは音楽プレイヤーに接続したスピーカーの音量を下げた。流れているのはオルタナティブロックだった。
「君が来るのは初めてだね」
明るく言って、席を勧めた。勧められるまま椅子に腰を下ろしてヒャルトと向かい合った。
「君がこの棟に移ってどれくらいになるんだったか?」
「8年ちかいわ」
ほう。初めて気がついたようにヒャルトが言った。
「それだけのあいだ、この部屋に一度も来なかったのは大したものだ。君のことはいつも気にかけているつもりだよ」
それで、悩みは?そう来る前に私は手を振った。それから無意識に前髪に触ったことに気がついて手を引っ込めた。
「そういうことじゃないの」
「ああ、そっちか」
ヒャルトは拍子抜けしたように伸ばしていた背中の力を抜いた。疲れたスプリングが不機嫌な音を立てた。そういうことか。もう一度いって手を組んだ。
「有能な職員を失うのは痛手だが、そういうことなら大歓迎だ」
その時、ドアが開いてあばたの目立つ職員が顔を出した。私は彼女にヒャルトの顔が見えるように体を傾けた。
「お客がきたわよ。ラングレー」
「私に?だれが?」
「さあ、私は受付から連絡を受けただけだから」
「ラングレーにお客とは珍しいこともあるものだ」
ヒャルトも私もびっくりして思わず見つめあった。早合点したヒャルトが喜びを目に浮かべて
「こちらは後でいいから、行きなさい」
私は誤解を解く面倒を考えて何もいわずに部屋を出て受付へむかった。