一万倍

 ある年の夜、ウェストエリアへ出勤する直前にシゲルが部屋へやってきて、蛍をくれた。二匹の蛍は薄い和紙でできた箱に葉っぱと一緒に入っていた。
「店にもっていきなよ。喜ばれるから」
蛍はしおれかけた葉っぱの裏に隠れていた。僕はそのとき初めて蛍という生き物を間近で見た。それは親指の爪の半分ほどの大きさで黒くつやつやとしていた。
「近くの肉屋に売っていたんだよ」
「肉屋にですか」
シゲルは自衛隊の仕事を辞めてしまって、また髪の毛を伸ばし始めていた。
「珍しくて思わず買ったけど、俺はこれからしばらく戻らないからあげるよ」
尾藤ユリが突然、行方不明になってからこの家には新しい住人がやってくることはなかった。ホテルでコックをしていたタイキという大柄の男は、用賀駅の近くに小さな店を出して以来、ほとんど店に寝泊りしていて戻ってこなくなっている。
 毎日、家にちゃんと戻ってくるのは僕とシゲルぐらいのものだった。そのシゲルは音楽仲間と本気で音楽で生活すると言い出していた。
これから1週間ほど新千葉で街頭演奏をするのだとシゲルは言った。
「俺も若くないから、これが最後のチャンスだと思ってるんだ」
マスターによろしくと言い捨てて自分の部屋に戻っていった。
ウェストエリアの客は僕が持ち込んだ蛍に興味を示して光るのを待ったが、蛍は葉っぱの影に隠れたまま光る気配を見せなかった。
「こんな騒々しい場所では光らないよ」
サックスのいない中年のジャズバンドの演奏が終わってから、マスターが言ってCDをかけた。アーリガンスという古いジャズバンドのゆったりとした曲が流れ始めると、客はもう蛍への興味は失ってしまった。
 僕は仕事をしながら時々、蛍を覗いてみたけれど光りそうな様子はなかった。
 夜明けの光りが店内に差し込むようになると、客が減っていった。僕が掃除を終えて店を出ると声をかけられた。その女の子の二人組みには見覚えがあった。開店直後からウエストエリアにいて、閉店の少し前に出て行った。何度か飲み物を運んだのでよく覚えている。店は騒がしいので会話は分からなかったけれど、一人の女の子が悲しいか辛いことがあって、もう一方が慰めているようだった。
「蛍、光らなかったね」と小柄で華奢な方が慰めるのに疲れた様子で言った。もう一方のほうは泣いたらしく、目を赤くしていた。
「もっと静かなところなら光ると思うよ」
「朝でも?」「どうだろう」僕は手にした和紙の箱を持ち上げた。
「今からお酒を飲めるところはありますか?」
今から?と僕は驚いて言った。
「まだ飲むの?もう朝だよ」
「この子、お昼に盛岡に帰るんです。それまで飲みたいって」
「もうどのお店も終わってるんじゃないかな。何か買ってその辺で飲む分には平気だろうけど」
「良かったら一緒にどうですか?」
僕は何も言わない女の子を見た。ひどく疲れた感じで、カラスが群れだって横切っていく朝焼けの空を見ていた。露になっている肩にかかったキャミソールの紐がだらりと二の腕まで垂れ下がっていた。
 僕が店に戻ると、マスターが客用のソファで煙草を吸っていた。座るというよりも体を投げ出したところにソファがあった。そんな座り方だった。その足元には満杯のゴミ袋が三つ置いてあった。
 壁にかけてあるレコードを見つめたまま、マスターは手だけ動かして煙草を吸っていた。手を口に持っていき、手が下がると口から煙が噴出した。そういう機械人形みたいな動きだった。僕はさっきの女の子よりもマスターの方がよっぽど憔悴しきっているように見えた。
 事情を話すと、マスターは苦々しい顔で僕を見て「特別だからな」といって、冷蔵庫からビールを三本と水、小さい焼酎の瓶を持たせてくれた。
 僕が酒を持って店を出ると、二人は道端に並んで立っていた。それから僕たちは近くの公園にいって酒を飲んだ。
 二人はブランコに座って、僕はブランコを支えている支柱に寄りかかった。二人は幼馴染みで一緒に東京に出てきた。泣いている方の女の子は弁護士を目指して、なだめている方は歯医者を目指していたけれど、弁護士を目指した方は学校の試験に合格すらできず三浪して恋愛にも辛いことがあって実家に帰ることにした。
「一番辛かったのは浮気されたこと」
空のビール瓶を足元において、こぎ始めた。僕ともう一人は左右に揺れる彼女を顔を左右に振りながら見ていた。
 大した話しもせずに時間が来て、僕たちは東北新幹線の始発のある新赤羽駅行きのバス乗り場まで行った。二人は抱き合ってうんうんとうなずき合っていた。
 バスが行ってしまうと、僕たちはぽつんとその場に取り残された。派手に暴れた主役がさっさと舞台を降りてしまったみたいだった。来た道を引き返して、僕は彼女と一緒に自分の部屋に来た。彼女が誘ったわけでも僕が誘ったわけでもなかった。何となく自然にそうなってしまった。
 一ヶ月分は疲れたわ。といって彼女は住み慣れた部屋みたいに床にぺたんと座った。
「あの子、大丈夫かな」
彼女は長い髪をまとめて、ゴムで止めた。真っ白いうなじが露になった。
「しばらくは実家で休養だね」
「実家といっても、あの子に家族はいないの。誰も戻ってこなかったの。仲の良い家族だったんだけど」
「じゃあ、戻っても一人きり?」
うん。とうなずいてバッグから化粧落としの紙を取り出した。
「化粧、落としても良いかな」
「うん、いいけど」
すでに崩れていた化粧を落としながら「時々、引け目を感じていたのよ、あの子に。私があの子の運を吸っていたみたいで。私は全て順調。勉強も恋愛も。特に恋愛」と独り言のようにいった。
化粧を落とすと、彼女は少女のような顔になった。きれいに生え揃った眉はそのままだった。
「あなたって不思議ね。変な魅力があるのよ」
「そうかな」
そうよ。ときっぱり言った。
「弱いわけでもないんだろうけど、ほっとけないわね。あぶなかっしくて」
水が飲みたいというので、僕は椅子から立って部屋を出て水を入れたコップを2つ持ってきた。椅子には彼女の鞄が置いてあり、持ち主はベッドの上に座っていた。蛍の入った箱を覗き込んでいる。
 彼女は遠慮せずに水をグビグビと喉を鳴らして飲んだ。
 僕が床に座ると「ここは誰かの特等席だった?」「そんなことないよ」「ならいいけど」そう言って気絶するみたいに後ろに倒れた。
 彼女が寝てしまって、僕も床の上に寝転がった。静かな寝息を聞いているうちに僕も寝てしまった。

 首筋に熱い物を感じて目を覚ました。それが女の寝息だと気が付いて身を硬くした。彼女は頭を僕の肩に乗せて、鼻先を首につけていた。顔を動かすと頬に柔らかい髪の毛の感触を感じた。
 長い間、ほんの少しも動かないようにじっとしていた。そうしていると胸が少し熱くなった。昔、アスカが同じようにして隣で寝息を立てていた夜のことをずっと思っていた。
 そのうちに彼女が目を覚まして、ありがとう。と目をこすりながら言った。
「意思が強いのね」
「僕は臆病なんだ」
「好きな人がいるの?」
「いないよ」
「ウソよ。そんなはずない」
「断定しないでよ」
「ならあなたはホモか、正真正銘の臆病ね。お水ありがとう」
そう言って彼女は椅子から荷物を持ち上げて出て行った。
 その日、僕は仕事を休んだ。蛍を持ってなるだけきれいな川を探した。小川の岸に茂っている草の葉の上に二匹の蛍を乗せると、二匹はすぐに別々の方向へ進み始めた。空箱を持って長い間、そこに立っていた。辺りに闇が下りて蛍の姿は分からなくなっても待ち続けた。
 弱い緑の光が草の陰に灯った。光の玉はゆっくりと草の上を這っていった。数を数えるように点滅を繰り返して、光の玉は突然に飛び上がった。
 蛍は少し風に流されてから一気に舞い上がり、遠くへと去っていった。
 僕は怖くて女を抱けないような臆病者でないと自分に言い聞かせた。燃え尽きた灰の中にゴツゴツとした物が残っていて、それを火箸の先でつつくような感触がした。今にも燃え尽きそうなそれは、燃え尽きた灰の中でくすぶっていつまでも僕を苦しめた。

 暑さが和らいで少し肌寒いぐらいだった。四季を経験したことのある人は秋が戻ったと言い始めて、ちょっとした騒ぎになった。
 秋なんて知らない世代は知らない方向から吹いてくる乾燥した風に驚き、揃って風邪をひいた。僕は不思議と平気でそれを誇りたい気分にもなったけれど、話すような人もいなかった。
 人々は珍しい秋を楽しんで、幸せそうだった。なれないコートを着たり、澄み渡った空を指差して会話したり、恋人たちはさらさらの肌の感触を味わったりしていた。
 シゲルは相変わらず仲間と精力的にライブハウスを回っていて、たまに疲れきって帰ってきて、丸太みたいに何日か寝てまたギターを担いで出て行った。部屋で僕に寄り添ってくれた女はしばらくは連絡を取り合ったけれど、そのうち連絡がつかなくなった。
 僕はそんなひどい孤独の中で二十七歳の誕生日を迎えた。おめでとうを言ってくれる相手もいなかったし、ありがとうを押し付ける相手もいなかった。
 二十七歳になった次の月はさらにひどくて、ウエストエリアには毎日通ったけれどマスターと口を聞かない日もあった。マスターの無口な性格がひどく恨めしく思えた。
 秋のような気候はどんどん深まっていき、人々の心は浮き上がったけれど僕の心は反対に沈んだ。何度か仕事を無断で休んだ。
 ベッドにもぐりこんで頭から布団をかぶり、赤ん坊のように膝を抱いて孤独に耐えた。自分の体温で自分を暖めていると忘れていた、あの操縦席のことが思い浮かんできた。
 色んなものを背負わされて生死をかけて戦い、格納庫に戻って操縦席の電源が落ちた瞬間に味わうあの感覚が僕を震えさせた。
 手を何度も握ったり開いたりして生きていることを確認しながら、僕を取り囲んでいる物事の行方を考え続けた。僕の周りを色んな物事が過ぎ去っていって、自分を守ってくれる人たちやエヴァはもうないんだと言い聞かせた。
(ちっとも補完なんてされてない)
心臓を押しつぶされそうになりながら心の中で呟く。
(十四年前のまんま。心も体も欠けたまんまじゃないか)
ダイジョウブ。僕は耐え切れる。