白骨

ー豪雪ー

チケットカウンターの女は目前に迫ってきた男の姿を見つけると、苦々しい笑顔を作った。粘土の仮面の口を無理やり笑顔にして、さっと顔にかぶったようだった。
「ミスター。困ります。どうにもならないんです」
「いや、ちがうんだ」
「何が違うんですか?」
「雪が止んで空港が再開されるメドを−」言い終わらないうちに女は手を二人の目線をさえぎる位置までもってきて振った。
「そういうことは気象局にお聞きになったらどうですか。私が言えることはただ一つ。飛行機は飛ばない。ということだけです」
女はそれだけ言うと、制服のスカーフの位置を直して、コンピューターのモニターに視線を戻した。
「とても急いでいるんだ。それがもう二日もここに足止めされてる」シンジがカウンターに手を置いた。女はその指をちょっと見てからしぶしぶ目を合わせた。
「神様に、あなたの場合はきっと、ブッダにお祈りしてください」
シンジは指の柔らかい部分でカウンターを軽く叩いてから、背を向けて椅子の並ぶロビーへと歩いていった。
 窓の外は真横に降り注ぐ雪で真っ白になっていた。その向こうで赤色灯がぼんやりと光っていた。雪は最後の除雪を終えてからもう数十センチも積もって、除雪車も諦めて車庫へと引っ込んでしまった。空港は記録的な超弩級の雪に押さえつけられてまったく身動きが取れない状態になっている。
 空港のロビーは人で溢れかえっていた。空港の閉鎖を伝える放送がドイツ語と英語でいつまでも繰り返し放送されていた。人々の吐き出す息と最大出力の暖房のせいで、空気は病院のように濁っている。
 荷物を載せていない電動カーがぎっしりと埋まった人々の間をたくみにすり抜けていった。退屈をもてあました子供たちが嬌声を挙げてその後を追っていく。
 ギャング集団から逃げる映画の主人公のように、ハンドルを切っていた運転手はブレーキを握って急停止した。
 その前を惣流・アスカ・ラングレーが獣のような早足で横切った。赤いフェルトのロングコートにファー付きの大きなロシア帽をかぶっていた。
 彼女は零下十度の空気を引き連れて熱ぼったい空気を引き裂いて進んできた。運転手はその後姿を眺めていたが、子供たちに運転席を占領されてしまうと一馬力のアクセルを握った。
 節電で弱くなった照明の光の下で、彼女の黒いブーツが光っていた。そのせいで彼女は北欧モデルのようなかなりの長身に見えた。たまたま真っ赤のコートを着ているのが、このロビーで彼女一人なのも、それに拍車をかけていた。
 本が床に落ちる音を聞いて、シンジは窓際を見た。それまでボストンバッグを背もたれにして本を読んでいた男が、顔を右に傾けて口をあけたまま眠っていた。その口からはいびきになる直前の寝息が聞こえてくる。
 アスカは猛スピードでやってきて、目の前で止まった。そして冷たい目で椅子に座っているシンジを見下ろした。シンジはそれを避けるように窓の外に目を移した。
「散歩は楽しかった?」
「ええ」アスカはいいながらポケットから手を出して腰に当てた。それから少し前かがみになって「体はすっかり冷えたわ。頭の中は逆だけれど」と言った。
「とても羨ましい情報もあるわ」
「どんな情報?」
「まずはベルリンはすがすがしい晴天だってこと。そして私たちは、おそらく明日までここにいることになるってこと」
「知ってるよ」
「ベルリンの知り合いに電話して聞いたの。どのニュースもバイエム地方の豪雪で持ちきりだって。ここ三十年で最高の積雪量だって」
「ベルリン産の情報なら確かかもね」
シンジは窓際まで歩いていって、ガラスに手を当てた。一枚向こうは雪の荒れ狂う嵐であった。
「この調子じゃ、雪が止んでも除雪にだいぶ手間取るわね」
「どこら辺までこの嵐なんだろう?」
シンジは再びカウンターへと歩いていった。女はモニターからちょっと目を離して近づいてくるシンジを見てから深く息をついた。どう言い方を変えれば理解してもらえるだろうか。そんなうんざりした表情だった。
「お客様は英語は話せますか?」
「こうして話しているよ」
「なら、よーくご理解くださいね。空港はクローズ。飛行機は飛びません。おそらく明日の夕方まで。辞書が必要?」
それから女はアスカを見て「あの方にお話したほうがいいかしら?ドイツ語ができそうだわ」とサービス精神に反しない限界まで嫌味を込めて言った。
「それとも、警備員とお話になる?」
「警備だって?」
「あまり状況がご理解いただけないと、そうするより他にないんです。警備なら心ゆくまでお話を聞いてもらえますわ。もっとも、それと同じぐらい質問もされるでしょうけど」
そうして、威嚇するようにキーボードの脇の白い電話機に目をやった。内線ボタンのいくつかが赤く使用中を示して点滅している。
「ここから最も近い空港はどこかな?」
「デリュッセルね」「そこは飛行機は飛んでいる?」
女はすばやく内線の受話器を取って、点滅していないボタンを押した。そして電話に出た誰かと早口でドイツ語を交わして受話器を元どおりに置いた。
「飛んでいます。ただ、向こうもかなり雪が降っています」
「閉鎖の予定は?」
さあ、と女は肩をすくめた。
「ここに居るよりはあなたのお望みを叶える可能性はあるわ」
厄介払いをするように言って、またアスカの方を見た。シンジは体を動かしてその視線をさえぎった。
「その次に近いのは」
「ブルーミング」
「そこに雪は?」
「降っていません」
「どうして分かるの?」
「ブルーミングはヒーラム山脈の向こう、イタリアですから」
シンジは礼を言ってから、口を空けて寝ている男の脇を通った。本は床に落ちて広がったままだった。アスカは窓に最も近い椅子に座って外を見つめていた。
「デリュッセルへの行ったことはある?」
アスカはそれには答えずにロシア帽をかぶったままシンジを見上げた。
「ここから先はいかないわ。あなたと一緒にはね」
「ここで二泊目の夜を迎える?」
「まだマシ。その方が」アスカは立ち上がった。ブーツの踵を足してもその身長はシンジより小さかった。ロシア帽を含めるとシンジの身長よりも高かった。
「デリュッセルみたいな田舎に何があるの?」
「空港がある。雪の積もってない滑走路も」
ふーん、とアスカは鼻を鳴らした。ロシア帽から抜け落ちた毛が褐色の髪にくっついていた。
「どこの馬の骨とも分からない男とは、これ以上一緒にいたくないの」
「そうかな」シンジが答えるとアスカは伸ばした人差し指を相手の鼻先につきつけた。
「知らないわ。少なくとも人を利用するようなシンジは。今のあなたのことよ」
シンジは細い手首をつかんで手を下げさせた。
「何も変わっていないよ。あの頃のまま」
「嘘よ」下げられた手をポケットにしまい込んだ。
「私にだって少しぐらいのコネは残ってるの。聞いたのよ。さっきね」
「ただの天気情報の電話じゃなかったんだね」
「そう。日本のパイロット養成施設から有能な教官が一人、行方をくらましたそうよ。名前はたしか、碇シンジだったわね」
二人は数秒間、見詰め合った。眠っていた男が目を覚まして大きなあくびをした。
「その人、何か大切な物を持って逃げたって。あっちじゃ大騒ぎらしいわ」
「逃げてなんかいない。借りただけだよ。ちゃんと許可も取った」
「その許可は国内だけでしょ。海外へは絶対持ち出してはいけない物」
「おかしいな」
アスカは再びポケットから手を出して、シンジの胸を押すように突いた。そして喉を鳴らして挑みかかるように勝気な声を出した。
「許せないのはね。私を巻き込んだことよ。私を騙してね。何も教えずに、急にあれ以来・・・十三年ぶりに姿を見せたと思ったら、どうしても伝えたいことがあるって。それでこんなところにまで連れ出して。私はそれで仕事を休まなくちゃいけなかった。これから死のうとする若いパイロットを育てるような高貴な仕事じゃないけど、私も政府の情報局にいるの。私がいなくなれば色んな業務に支障がでるわ」
「だから、君を、アスカを呼んだんだ」
「勝手なこと言わないでよ」
その声で本を拾うとしていた男がこちらを見た。アスカの目が少し釣りあがっていた。
「とても重要なことだっていうから・・・私は、あのことかと思った。やっとあなたにも、整理がついて、お詫びの一つでも言う気になったのかと思った。あの施設にいた頃の人間には絶対に会わないと決めていたけど・・・どうしてもっていうから、一度なら、シンジになら会ってあげてもいいかと思ったのよ」
それが、とアスカは声を低くした。走り出す直前の力を溜めるようないい方だった。
「私はガイドで通訳で、カモフラージュだったわけね。確かにあなたにとってこんな便利な人間はこの国に私ひとりだったってことでしょ。これで怒らない人っているのかしら?」
シンジはあたりを見回した。男は二人が話しているのが外国語で理解できないとわかって、読みかけた本に視線を落としていた。
「伝えたいことがあるのは嘘じゃないよ」
「今、ここで言いなさいよ」
「今は、ここでは無理なんだ」
「いつ、どこでなら言ってくれるのよ?」
「日本で仲間が事を処理してくれている。それまで―――」
アスカは苛立たしげに両手を振った「それまで私を連れまわす気だったの?私はあなたの子守役じゃないのよ」
「謝るよ。その事は、でも悪意があったわけじゃない。本当はすぐにでも伝えたい――」
いい加減にして。とアスカが声を大きくした。男ばかりでなく他の客たちも一斉にこちらを見た。
「そんなワケのわからないことに付き合わせれる身にもなってよ」
シンジは右手でアスカの肘を触った。
「大きな声だけは立てないで」
アスカは苦々しい顔でシンジを睨んでから顔を背けた。
「整理させて、本人の口から聞きたいわ」
わかった。とシンジは静かに言ってアスカを座らせて、自分もその隣に座った。客たちの視線が離れるのを待ってから呟く。
「僕は今、日本の最新兵器の操縦者を養成する施設で働いている」
「教官としてね」
「それはそれで僕の重要な、僕にしかできない役割なんだ。わかるよね」
「それは、アレに乗っていたから」
「そうだ。アレに乗ったことがある人間は世界に二人だけ。君と僕だけだ。でもそれはここではそこまで大切じゃない」
「あなたには、もう一つの顔がある」
「そう、さすがドイツの大学を出たのに、日本の大学に入りなおしただけのことはある」
「話を続けてよ」
「もう一つの役割、それはアスカの仕事とそれほど変わらない」
「日本の情報局?」
「扱っている情報が違うけどね。君は各国の政治的な情勢。僕は・・・」
シンジはそこで言いよどんだ。それが、伝えたいこと。に関係しているのだとアスカは思った。
「あの、まさか・・・」
聞き取れる最も小さい声でアスカが言い、シンジはゆっくりうなずいた。
「これ以上はここではダメだ。カメラに映ってる。後々、唇を読まれる恐れがある。ドイツはカメラを生んだ国だからね」
アスカが立ち上がった。ほのかな香水のにおいがした。
「なおさら私は嫌よ。もうあのことに関係するのは嫌なの。絶対に」はき捨てるように言ってロシア帽の位置を直した。
「すまない。でも君はもうこの件に関して無関係じゃない」
そう言われて、アスカは少し黙って考えていた。あまりにあっていない赤く塗った唇をきつく引き締めていた「あなたが関係をなすり付けてきたんじゃない。何でそう身勝手なの」
「どうしても君に伝えたいことがあるんだ」アスカは子供がイヤイヤをするように首を振った。
「議論はまた最初に戻るのね」
サービスカウンターの女が立ち上がってこちらをじっと見ていた。隠れて見えないがその手は受話器に置かれているようだった。
「君の命に関係する」
すばやく言ってシンジは立ち、アスカを自分の背中で隠した。
「あなたをここで警察に突き出したら?」
「感謝されるよ。一時的にはね」
「その手は食わないわ。犯罪者は誰でも使う手口よ」アスカは逃れるように窓際に歩いていき、シンジもそれについていった。本を読んでいた男は本だけ開いて、二人をじっと見詰めていた。
「もう、ここにいたくないんだ。車を借りてデリュッセルへ行こう」
諭すように言った。
「この雪の中を?」
「ああ、車を借りてくる」
「デリュッセルについたら、私はすぐにベルリンへ帰るわ。ベルリンでなくても、とにかく時間の会う便に乗ってあなたと別れる」
「わかったよ」シンジはため息をついた。
「このことは、話さないで欲しい。もしも何か言われたら、何も聞かされていないと言うんだ」
「どうかしらね」アスカは瞳をじっと窓の外の暗闇に向けていた。
「よく考えたら、私、この十三年間であなたを許せると思ったことは一度もなかったもの」
「それでいい、アスカはもうアレには無関係でいいんだ。そうしよう」
少しためらって、赤いコートの背中に手を置いた。ぐっと近くなったシンジの顔を、アスカは窓に映る姿で見ていた。
「車を借りてくる。ここで待っていて」
数歩ほど進んでから振り返り「四輪車とホバリング車、どちらがいいかな?」
「日本のお仲間に電話してみれば?秋田ではどっちが多いかって」
「あいにく、日本は常夏なんだ」
「その分の寒さを引き受けてるのがドイツだってことをお忘れなく」
アスカは背もたれに身を預けて、窓の外を見た。暗闇の中を雪が荒れ狂っていた。