−生体保存−

 省電力灯のかすかな緑色の光りが照らす廊下を歩いていくと床に黒い染みが落ちている。
「血ね。だいぶ古いわ」
アスカが後ろから声をかけた。シンジはしゃがんでその染みをじっと見つめている。血と思われる染みは乾燥しきって真っ黒になり、緑の光りの中で浮いたように見える。
「誰かが血をたらしながらここまできたんだ。血はここで終わってる」
「ここで死んだのかしら」
「大した出血じゃないから、ここで血が止まったんじゃないかな」
奥へ進むにつれて染みは大きくなった。突き当たりの集合室の扉を開く。
 ダイニングテーブルがいくつか並んでいて、椅子があちらこちらに散らばっている。背もたれに布のかけられた椅子の周りに大きな染みが落ちている。
「ここで止血したんだ」
「あれはなんて書いてある?」
シンジは半開きになっているドアの上のプレートを指差した。
「…研究・保存棟。奥へ行くの?」
ドアへ向かって歩き出したシンジは振り返った。「怖い?」アスカはそれを無視してポケットから携帯電話を取り出した。
「緊急時だったけど不法侵入なのよ。無駄なことには触れたくないわ、あなたの傷も治療したい」
携帯電話はいつでも通話できる状態になっていた。
「病院に連絡してくれ。救助が来るまでに見て戻ってくる」
それから数秒ほど見詰め合った。無言のまま歩き出したシンジを苦々しく見ていたアスカはため息をついた。
(私が、アイツのペースに引き込まれてるのね)
携帯電話を再びコートにしまってから、ブーツの音を強調させて後を追った。
地下へ続くスロープの両脇には様々な薬品を保管した部屋が続いている。奥へ行くほど染みは大きさを増していく。
「こういうことも仕事のうち?」
「まあね」
「この先に何があっても私たちのためになるとは思えない」
「職業病かな。このドアは?」
「動力室。こんなことばかりしてきたの?」
「そうでもないよ。ほとんどは真面目な教官で過ごしてきた」
潤滑油の切れた金属ドアが悲鳴のような音を立てて開いた。巨大なパイプを生やした鉄の塊が低い音を立てている。
「死んだ施設というわけでもないみたいだ」
「傷は痛まない?」
「痛む。歩くだけで辛い。病院でゆっくり休むよ」
二人だけの廊下を音が暴れまわって扉が閉まった。アスカはぎくっとして刑務所のような廊下の歩いてきた道を振り返った。だいぶ深くまで下りて集合室の扉はもう見えない。
 二人はさらに二つの扉をくぐった。両方の扉に「立ち入り禁止」と書かれていたが、シンジは意味を聞かなかった。
 突き当たりの最後の扉の前に立つと、シンジはためらいなくそのドアノブをひねった。アスカは鍵がかかっていることを期待したが、ドアはあっけなく開いた。
 ねずみ色の扉が開くに従って、湿った青い光りが目に飛び込んできた。
機器に満たされた部屋の中央には液体で満たされた巨大なアクリルの筒があり、そこだけ青い光りで照らされた中には人間が入っていた。
女だった。若い女だ。十代の終わりか二十代の前半の金髪の女が全裸のまま浮いている。その肌色はみずみずしかった。
「生きてるの。あれ」
それから、筒の根元に目線を移して、アスカは目にした物の衝撃であっと小さく声をあげた。
 ボタンの並んだ管理機材の前に人があお向けに倒れていた。それはもう人とは呼べず、完全にミイラ化している。アスカに扉を押さえさせてシンジが中へ入っていく。
「こっちも女だ」
ミイラを見下ろして呟いた。
「そこで殺された?」
「どうだろう、殺されたというよりここに寝かされたという風だよ」
ミイラは死者が棺桶に入るのと同じ両手を胸の上で組んだ状態で寝かされている。シンジは機材のボタンやメーターを見つめたまま「読めない。こっちに来れる?」と聞いた。「扉がしまるわ」「構わないよ」アスカはためらってから中に入った。扉が閉まると光りは筒を照らす光りだけになった。
「生体保存の設備だわ」
アスカは右手で髪を押さえて、光りが足りずに読みにくいドイツ語を読んだ。
「これを見てくれ」
機材の腋から拾いあげた空の薬品のパックの紙表紙に印刷された日付を指差した。
「十三年前ね。この子、まだ生きてるのかしら」
少女の僅かにくすんだ金色の髪が内容液の循環で揺れている。まるで眠っているようだ。今にも目を開きそうに見える
「生体保存でも生きられるのはせいぜい五年。たぶん死んでる。保存液のせいで生きているように見えるだけだよ」
「こっちも十三年前からこのままかしら」
ミイラの肌はどす黒く変色して、濡れたシャツのように皮膚が骨に張り付いている。眼窩が落ち窪んで、乾燥で皮膚が縮み、口の両端が引きあがっている。笑っているようだった。全体がかすかに緑がかって見えるのはカビだろう。アスカが両極端の二つの死体に目を奪われていると「アスカの言うとおり、余計なことに首をつっこんだかもしれないな」とシンジが静かに呟いた。
「警察に通報しなきゃ」
「そうするしかない」
シンジは筒の中の少女に見入っている。
「戻ってから連絡するわ」
入り口を向いたアスカの手から携帯が落ちた。その音でシンジが隣までやってきた。
彫像になったようにアスカが見ている視線の先、ドアには血がべったりとついて、血の手形がいくつも捺されていた。

 夜を明かした施設の入り口まで戻ってきた二人はソファに腰を下ろした。アスカは膝に肘を立てて両手で額を抱えた。
「とんでもないことになったわ。逃げた方がいいかもしれない。あれは猟奇殺人よ」
「そうしたいけど、近くに僕の名義で借りたレンタカーが残ってる」
「電話していいのね」
ソファにもたれたままアスカの声を聞きながら目を閉じたシンジはひどい眠気を覚えた。
「救急車も呼んだ」
ありがとう。眠気をこらえて薄目をあけて隣を見ると、アスカは憔悴しきった様子で前を見つめている。
「アスカ、すまない」
へえ。と言ってから顔をこちらに向けた。
「やっとまともに謝ったわね。何に対して謝ったのかしら、思い当たることが多すぎてわからない」
「色々だよ」
「便利な言葉ね。寝てていいわ」
「平気さ。病院に運ばれてからのことを話そうと思ったけれど、後にしよう」
アスカがため息をついてじっとシンジの顔を見た。髪に隠れた左の額が青く晴れ上がっている。
「思ったよりずっと腫れているわ。冷やしたほうがいいのかしら」
「いいんだ。すぐに専門家がくるよ。任せよう」
傷口に向かって伸びてきた手をつかんだ。
「強がるわね。英雄シンジ様は」
「懐かしいことを言うね」
「昨日の夜のことは何も覚えてないの?」
「本当に殆ど覚えていないんだ」
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。アスカは立ち上がると扉を覆っていた板を引き剥がした。
 雪に反射したまばゆい光りが辺りを包み込んだ。