ー無人の施設ー

 シンジが目を開くと、火が消えかかっていた。あわてて身を起こそうとして、激しい全身の痛みに顔をしかめた。体の関節の全てが痛みを訴えていて、特に首の痛みは格別だった。
 悲鳴をあげる関節を騙し騙し動かしながら、ようやく身を起こした。アスカは猫のように身を丸めて眠っていた。
(火を燃やさないと)
首を手で支えて扉の方を見た。打ち付けられた板の継ぎ目から真っ白い光が溢れていた。蹴破った箇所には牛乳をこぼしたような陽だまりができていた。
(あの板を剥がせばよかったんじゃないか)
夜中に何度か起きて、燃えそうなものを探したことを思い出して、シンジは一人で苦笑いした。
 立ち上がったものの、もう必死になって火を燃やす必要はなさそうだった。息は白かったが、昨日の寒さに比べれば今日の空気はハワイかフロリダのように温かい。
 喉がからからに渇いていて何か飲みたかったが『販売中止』の紙をはがしただけでコカコーラの自動販売機が再開してくれるはずもなかった。
 アスカを起こさないように足音を立てずに廊下の奥へと進んだ。開け放ったまま閉じなくなったトイレを覗き込む。男女が同じ場所を使う様式らしく男女で分かれていなかった。紺色と白のタイルが床に敷き詰められていて、手前には古い洗面台が三基ならんでいた。右側の鏡は右下の部分がかけていて、その破片が段になった壁の上にまとめて置いてある。
 奥には防犯用の鉄格子を嵌めた小さな窓があり、ここも板でふさがれている。そこから日の光りがこぼれていた。
 水道の蛇口をひねってみたが、少しばかりの空気を吐き出しただけで、水は出なかった。
 トイレを出てから、昨日、足を踏み入れなかった反対側の通路を見た。そちらは昨夜よりは薄いものの、暗闇に覆われていた。
 廊下の奥に非常用の水をためるプラスティックのタンクが見えたので、シンジはそちらへと歩いていった。
 壁際にウォーターサーバーに設置するための四リットル入りの水のタンクが並んでいる。どれも水は満杯に入っていた。これを持ち上げる時の体の痛みを考えて憂鬱になった。
 白いリノリウムの床は長く放置されてところどころが伸縮に耐え切れずに波打っていた。廊下はかなり長く続いていて、その先に大きな透明の扉があり、その向こうは椅子とテーブルが並んでいる。食堂か集合所のようだった。
 リノリウムの上に点々と染みが落ちているのに気が付いて、シンジはそこまで歩いていった。そしてシンジはしばらく足元の染みを見つめてから、タンクまで戻って最も手前にあったタンクを持ち上げた。思ったとおり、関節という関節の全てがアラームを鳴り響かせるように痛みを発した。
 焚き火の近くにタンクを下ろすと、アスカが目を覚ました。シンジは引き出しからもってきた、まだ削っていない鉛筆を投げ込んだ。深緑の塗装が音を立てて溶け、それから火に加勢するように燃え出した。
「読んでくれない?」
シンジはタンクに貼り付けられたラベルを指差した。
「飲料水よ。ウォーコール社のね」
「飲んでも平気かな」
「お客様センターに問い合わせてみたら?電話番号が書いてある」
アスカは指で電話番号のかかれた箇所をなぞった。
「賞味期限は書いてないな」
「やめたほうがいいわ」もうタンクには目を向けずに言った。
「それよりも、車に戻るべきじゃない?今頃、大騒ぎになってるかも」
「あまり覚えていないんだ」
シンジはゆっくりと頭を触った。腫れているらしく、軽く触れるだけで針を束ねた棒で突かれるように鋭い痛みが走った。
「何も覚えていないの?」
アスカは驚いて尋ねた。
「ここに入った時のことは何となく覚えている。けれどここまでどうやって来たかはまったく思い出せないよ」
「頭を強く打ったから記憶が飛んだのよ。医者に見せないと。脳に何かあったら大変だわ」
アスカはコートについたゴミを手でつまんだ。広げたタータンチェックのマフラーには血がべっとりとついて固まっていた。
「縫わないといけないかも。あなたが嫌だといっても、連れて行くわ」
わかったよ。とシンジは言ってから、じっとアスカの顔を見た。そしてひどく厄介な役目を押し付けられたように、疲れた顔に微笑みを貼り付けた。
「でも、その前に確かめなきゃいけないことがある」