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箱舟 茜色の空、白砂に波が打ち寄せては汀にその跡を残す。 ゆっくりと揺れる海面を水平線から渡ってきた風が、水面をさざめかせている。 あらゆる生物の姿は世界からそっくり消えて、互いに溶け合った海で己の体が再び地上に戻ってくる時を待っている。 波際に女が一人、横たわっている。彼女は虚ろな目を茜色の空に向けたまま、もう何日も横たわり続いている。 傷を負ったその左目には眼帯が巻かれていた。流れ出た血はすでに固まって、彼女の眦から朱色の筋となって、耳たぶへと続いていた。 女の横たわった場所から、十五歩ほど陸へと上がった場所に、折れた生木が立っていた。盛り土の跡の新しいその墓標には、紐の切れたネックレスが、紐通しに釘を通して打ち付けられていた。 白砂の浜に長い影を引いて、少年が歩いてくる。少年は心持ち背を丸めて、疲れた体を引きずるようにして女の元へと歩いていった。 少年は女のところまで来ると、じっと女の顔を見つめた。女はそれに反応することなく、その瞳は空に浮かぶ雲に向かっている。 少年は女の脇に崩れるように座ると、それが自分に課せられた試練のように、気力を振り絞って女の眼帯を外し、携えてきた真水で包帯を洗った。 少年は女のうなじに手を回して、眼帯を付け直した。そうしながら少年は女の名を何度か呼んだ。 女はすでに生きる屍であった。 それでも、この世界に人間は二人きりだ。この渚に彼女を乗せた箱舟が流れ着いたとき、少年の胸には希望が生まれた。少年は自らがこの世でたった一人の人間でなかったことへの安堵と喜びで、少年は箱舟の重い扉を開いたのだった。 少年は膝を抱えて目前に広がる海を見つめている。 女は夜が来れば目を閉じて眠り、朝が来ればまた目を開いた。少年は親鳥のように足を棒にして食料を探し、女の元へと運んだ。 精神が宿っていた頃の鮮やかさをとどめたその唇を指で開き、食料を押し込み水を飲ませる。食料が硬ければ自らの顎で咀嚼してから食べさせた。 そんな日々が四十日も続き、少年の心には徐々に耐え難い孤独が生まれていた。希望は絶望にとって変わり、安堵は再び恐怖へと姿を変えていた。 少年は両手で自分の膝を抱いて、その間に顔を埋めて泣いた。 静寂に抗う波の音の中に、少年は鳥の羽ばたきを聞いたような気がして顔を上げた。 海原に沈みかけた半鳥半獣の石像から剥がれ落ちた破片が、飛沫を散らして海に沈んでいった。 少年は女に寄り添うようにして横になった。 「おやすみ」 少年は返事を返すはずのない女にそう言って目を閉じた。 −7日後 少年は鳥を見た。少年が生み出した幻影の鳥はどこかから現れ、ほんのかすかに青さを取り戻したように見える空を舞っていた。 少年は絶望に打ちひしがれた目でその動きをいつまでも追った。鳥はゆっくりとこちらに迫ってきた。その嘴には小さな実をつけた小枝が咥えられていた。 その影が二人をかすめて過ぎていき、鳥は煙のように消えた。 少年はこれまでにも何度かそうしたように、女の肩をつかんで静かに揺らした。 「起きてよ。ねえ、起きてくれよ」 女は答えない。揺らされるままに時折、まばたくだけの目を虚空に向けるのみだ。 少年はもう涙の出なくなった目を両手で覆った。女の腹に顔をこすりつけて、苦痛に満ちた呻き声をあげた。 −7日後 人は解けて水となり互いに溶け合ったまま、誰一人として返ってこない。 少年の心も、女と同じように空っぽになっていた。涙は尽き、鼓動は感じられず、血は冷たくなっていた。 少年は最後の食事を女の口に運んだ。女はもう元にはもどらない。その確信が少年の心を闇で膨らませた風船のようにしていた。 水を飲ませてから、少年は女とならんで横になった。 女が見ているのと同じ夜空をいつまでも見た。今は息をする屍と成り果ててしまった女と過ごした日々のことが、波の音に合わせては浮かんでは消えた。 人を小ばかにしたように名前を呼び、冷たく高慢な態度を取りながらも、蔑みの言葉の裏に自分への強い愛情を隠していた女。 少年は人の声を聞いたような気がして、女のほうへ顔を向けた。 女の体の向こう、白波の泡沫が網の目ように漂う場所に、少年は立ちすくむ少女の幻影を見た。 少女は無言のまま、いつまでも少年の方を向いていた。もう終わりだ。少年の心が諦念に覆われたとき、少女の姿は無言のまま消えた。 少年は身を起こすと、少女の上に乗りその手を首にかけた。 俯き、肩を震わせて躊躇ったあと、力任せにその首を絞めた。 その時、少女の右手が動いて少年の頬を掌で覆った。自分の身を守ろうとする本能だったのか、空っぽの精神に微かに残っていた愛情だったのか、その手は少年の頬に体温を伝えて添えられた。 少年の腕から力が抜けた。少女の手は再び砂の上に戻った。 少女の体温の残った頬を伝い落ちた涙が少女の顔にいくつも落ちた。 声を上げて泣きじゃくる少年に向かって、少女の口が動いた。 「気持ち悪い」 少年は嗚咽を繰り返しながら、少女の顔を見た。その目が少年の顔を見つめていた。 「気持ち悪い」 その言葉に、少年はいっそう溢れ出た涙を拭った。 「戻って、来たんだね」 「もう、殺し合いはまっぴらよ」 女は砂浜に手を着いて体を起こした。 海原を食い入るように見つめる女に促されるように、少年も海を見た。空にはうす雲がいくつもの筋となってたなびいていた。その奥には抱えきれないほどの星の塊りが、皓々と光っていた。 長い受難は終わり、祝福がやってくる。少年はそう思った。 すると少年は中空で月を通ってかかる赤い虹の姿を、その目にはっきりと見た。 エヴァンゲリオンの最終場面を私なりの考察で描写した小編です。 このラストシーンには謎が多く、それこそ見た人によって感想も様々ですが、私はこれはノアが方舟に乗ってアララト山にたどり着いた時の様子を模したものだと思います。 シンジとアスカ以外に生物の気配を感じさせない世界、鳥の石像、天空にかかる赤い虹。これらがそう思わせる根拠です。 世界に戻ってきたシンジは程なく、流れ着いたエントリープラグからアスカを助け出す。けれどアスカは母であった弐号機を失って再び心神喪失になっており、重症も負っていた。 シンジは彼女の傷を治療する傍ら、ミサトのネックレスを木に打ち付けて墓標とした。 アスカの世話をする日々が続き、シンジはアスカが回復の気配を見せないことに疲れきります。 シンジがアスカの首を絞めたのは、洪水の終わりを悟ったノアが生贄を神に捧げた。という場面と重ねました。ただ、そのままアスカが殺されてしまうのは、ちょっとせつな過ぎるので、シンジの涙に打たれることで、アスカが自我を回復し、彼女らしい言葉として「気持ち悪い」と呟いたことにしました。 旧約聖書では、生贄を捧げたノアに対して、神は二度と生物を滅ぼさないと約束し、その証として虹をかけた。となっています。 このあと、人々は少しずつ戻ってきて、世界は元の世界へと回復してゆく。という結末を予想してみました。 感想、お待ちしています。 |